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センチメンタルを討つ~太宰治「人間失格」を読んで~

「人間失格」読了

先日、太宰治の「人間失格」を読み直しました。初めて読んだのは明確には覚えてないのですが、ぼくの持っている角川文庫の奥付は2006年の28刷になってましたので、そのあたりかと思います。いやー、つまり、13年ぶりに読み返したということですよ。びっくりです。

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(※当時デスノートにハマってたから買っちゃったのかな、と思うほどのミーハー感。)

なぜ読み返したのかというと、二つ理由があります。一つ目は小栗旬主演で「人間失格」を映画化するということで話題だったから。確かにスチール見ると蜷川実花の世界観爆裂で、あーなるほどね〜感がありますね。たぶん映画館に行ってまで観ないと思いますが、なかなかカッコいい小栗旬を見られて目の保養にはなります。

もう一つは、13年前に読んだ時より読解力が上がってるはずなので、当時あまり楽しめなかったが今なら太宰の良さが分かるかもしれないと考えたからです。

ぼくは、一応太宰は一通り読んでいるつもりで、ちくまの全集とか買ってしょぼしょぼと読んだ記憶があります。太宰の前期は楽しく読んだのですが、後期になるにつれ辛くて辛くて仕方なかったですね。つまり、一番狂信的なファンの多い時期の太宰に、ぼくはピンとこなかったわけです。

なんでピンと来ないのか当時は言語化できなかったのですが、たぶんあの弱々しい感じが許せなかったのでしょう。若いときは残酷ですからね。強く雄々しくあるべき、そうなれるはずだと信じていたのでしょう。そんなこと文学に求めるのが間違っているのにね。

さて、それで読んでみた結論です。

読書メーターの感想ではオブラートに包んで書いてますが(そうか?)、はっきり言って面白くはありませんでした。

ストーリーがどうとかという問題ではなく、この作品は駄作だと思ったのです。私小説で自身の内面を吐露する場合、一番大事なことは「広がり」の有無です。どういうことか。

内省によりどんどん自己に閉塞していく作品は、普遍的な問題を取り扱わない限りナルシシズムに堕することになります。延々と自分の悩みを吐露するだけの作品はあってもいいですが、やはりそれを傑作とは言えないでしょう。

ですが、そんな作品なのになぜnoteを書こうと思ったのかといいますと、このナルシシズムと関係があります。正確には、太宰がこの作品でナルシシズムによって隠蔽したセンチメンタルについて書きたいと思ったのです。

太宰治のセンチメンタル

13年前に「人間失格」を読んだときには気付かなかったのですが、改めて読んでみるとだいぶ太宰は防衛的に主人公の葉蔵の心情を書いているのがわかります。

葉蔵の内面描写は、一見とても詳らかに書かれているように感じます。ですがよくよく彼の行動と言動を照らし合わせると、彼の内面描写は一枚の薄膜で覆われていることがわかります。

一々それをここで取り上げることは難しいのですが、例えば葉蔵の性格です。彼ははじめ全てを達観しているように見えますが(「空腹を知らない」「所有欲がない」など)、彼の実情はまったく違います。女性の顔を思い出せない割に寿司の味は鮮明に覚えていたり、ヨシ子が強姦されているのを見たら「ショックを受けていない。」と言いつつものすごいショックを受けていたりします。

一人称で描かれるこの作品で、どうしてもっと直接的に内面描写ができないのか。なぜ全編通してナルシシズムで覆い隠さずにはいられなかったのか。

それは、上述した通りセンチメンタルな心情を隠蔽したかったからに相違ないのです。

これはもしかするとぼく自身の固有な使用法になってしまうかもしれませんから、一応定義を先にしておきます。

センチメンタルは、一般的には「情にもろい」ことを言います。ただ、ぼくはそこに「情にもろいことが心地いいと感じる心」という含みまで待たせたい。少しメタ的ですが、おそらくセンチメンタルの本質はそこにあります。

さて、太宰は非常に格好をつけることで、このセンチメンタルを隠蔽しようとしていました。そして読書メーターにも書きましたが、それは彼の「文学的才能の欠如(または枯渇)」を表しています。なぜか。

端的に言うと、「センチメンタルは何も生み出せない」からです。

例えば、何か事件が起こって情が揺さぶられたとしても、その事件がどうだったかは関係ないのです。情が揺さぶられたこと自体が心地いいのです。

これは恐ろしく虚無的なことです。ほとんどすべての快感が自身の内にしかないということですから。結果として、とてもナルシスティックになるのは自明の理と言えるでしょう。

また、冒頭に書いたように、自身の悩みが他に敷衍する普遍性もありません。すべては自己で完結してしまうのですから。

このセンチメンタルですが、蛇足的に付け加えますと、過度な自意識や、過度な被害妄想の根源でもあります。自分以外に好きなものがないので、みんなが自分を見ていると思い込みますし、究極的には自分が悲劇のヒーローとして振る舞うしかありません。どちらも葉蔵にぴったりと当てはまりますね。

センチメンタルを超えて

太宰の小品に「トカトントン」という傑作があります。この短編は、ある男が敗戦をキッカケにして、脳内で「トカトントン」と釘を打つ音が鳴るようになります。その音は、男が何かをやろうと奮い立つと待っていたかのように鳴ります。男はその音を聴いた瞬間、すべてにやる気がなくなってしまう、という話です。

ぼくはこの作品に、太宰のセンチメンタルの起源を見ます。周囲の環境に感動できなくなり、少しでも心が揺れると、その心が揺れた自分自身に酔ってしまうというセンチメンタル。ぼくの嫌いな後期の太宰は、まさにこの辺りから始まります。

ぼくは太宰のセンチメンタルは断固として否定します。文学的にも価値は低いと思っています。ぼくはこれに対置する形で、ロマンティックという概念を提唱したい。

ロマンティックは辞書的には「現実を離れ、情緒的で甘美なさま」なので、あまりセンチメンタルと対置できるものではありません。なので、少し手を加えさせてもらいまして、「空想的=文学的なセカイに没入すること」とします。

ロマンティックにメタ的な視点はあり得ません。すべてを自身の内に回収してしまうセンチメンタルとは、ここが大きく違います。

太宰がもしロマンチストで「人間失格」を書いていたらどうなっていたでしょう。おそらく、あんな中途半端なヤク中患者で葉蔵は終わらず、果てしなく堕落していくに違いありません。ナルシシズムの薄膜は引っぺがされ、どこまでも惨めに、どこまでも哀れに、そしてその真っ裸で何者でもなくなった彼は、一つのセカイの象徴に成り得たに違いありません。

自己に閉塞するのは、私小説では当たり前です。ですが、もっともっと豪快に、そしてアクロバットに閉塞していかなければなりません。場末のマダムに「彼は神のようにいい子だった。」なんて言われてはいけないのです。

とことん没入すること。脳内で鳴り響く「トカトントン」が聴こえなくなるまで、なりふり構わずセカイにむしゃぶりつくこと。私小説であれなんであれ、そのようなロマンティックな作品が結果としてセカイに亀裂を生むほどのインパクトを持つのです。

ぼくには太宰が、メフィストフェレスとギリギリでおじけづいて契約しなかったダメなファウストに見えて仕方ありません。ぼくたちはちゃんと悪魔に魂を売らなければいけないのです。

最後に、「人間失格」の主人公の葉蔵は画家になるのを諦め、売れない漫画家になります。当時の漫画家の地位は、おそらく最下層だったでしょう。メインカルチャーである画家を目指していた葉蔵を太宰に置き換えてみます。芥川賞を受賞するような一流の文学者を目指していた太宰。しかし結局は漫画のような作品しか描けなかった絶望。やはり「人間失格」の「人間」は嘘で、「文学者=芸術家失格」が本当にふさわしい題名だったに違いありません。



まだ頭の整理がつかないことをダラダラと書いてしまいました。ナルシシズムとセンチメンタル、ロマンティックの関係は、もっとちゃんとブラッシュアップしたいと考えています。おそらく現代人の根幹に関わりそうな予感もある命題ですから。


それはともかく、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。今回は太宰論のつもりではないのですが、太宰ファンには耐えられない杜撰な話題だったかもしれません。

もしよろしければ、「そうじゃないよ!」という意見をお持ちの方はどんどんコメントいただけると嬉しいです。


ではまた次回。(今回は真面目すぎたな〜)


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