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アンチ・ポイントカード宣言

ポイントが襲ってくる。

声なき声が聞こえる。

「あそこのスーパーを使え。コンビニはあれだ。なぜ現金を使う?ちゃんと還元率を考えて…」

ぼくは発狂しそうになる。前まではクレジットカードやTポイントによる脅迫に苛まれていたのに、いまやポイントの無い店は存在しないかのようだ。このセカイのすべてが、ぼくに「お前、損してるぞ!」と脅かしてくる。本当に助けてほしい。

買主と売主の信頼関係。

先日、妻と保険をどこに入ろうか検討していて、とてもウンザリしたのだが、これも上述したポイントカード的「お前、損しているぞ!」攻撃の変種なんだなと痛感した。あと、資産運用について調べたときも同じ感覚だった。(運用する資産など無いが。)

しかしぼくは思うのだ。そもそもポイントって、もらえたらラッキーなものだが、売買取引において価値基準になってよいものなのだろうか、と。

ポイントの還元率やクーポンで、定価の信用が著しく下がってしまった。なんのポイントもクーポンも利用せず、ものを定価で購入する人間に「お前は損しているぞ!」と脅迫するセカイが到来してしまったということだ。

これはつまり、商売の基本である「等価交換」の原理そのものが壊れてしまったことを意味している。買主と売主の信頼関係がないセカイは資本主義が正常に機能しないし、また社会全体として不幸だろう。

定価の設定、つまり値付けは(特殊な事例は除き)売主に決定権がある。だが、それがものの価値と等価だと判断するのは買主である。これが定価の信用を支えているのみならず、売主自体の信用も担保されているのだ。

かつて中世日本では、市場は必ず神域で立った。売主と買主が等価交換するための信用を担保するために、神々の視線を利用したのだ。それほどまでに日本人は、売買取引に神経を使ってきた。

損する人と得する人

ここまで書いて、それは関東人の感覚ではないか、と反論されるかもしれない。関西人は定価でものを買わず、値引き交渉を行うことがままあるからだ。しかし、それは決定的に見落としている。

それは「得した」か「損した」かの違いである。上述したように、定価の設定は売主の権利である。そしてその妥当性は買主が判断する。値引き交渉とは、買主が売主にこの定価に見合うものであるかの疑義に他ならない。買主による主体的な価格の訂正は、それに売主が合意すれば買主にとって等価交換となる。そしてポイントは、その価格の訂正は「特殊事例」であることなのだ。(もちろん、表向きだけかもしれないが、それでも。)売主が買主であるぼくだけのために価格を訂正してくれる、この一事でぼくは「得する(または得した気分になる)」。

他方ポイントとは、株取引のトレーダーのように逐一情報を入手している人が得られるボーナスである。売主が主導する価格の切り下げは、そもそも定価を設定するのも売主なのだから、その切り下げられた価格が定価だと言って差し支えない。つまり、本当の定価を知らない人が「損をする」形式なのだ。(最近のホテルのポータルサイトやコンビニのCMを見れば、得する人と対比されて損する人が出てくることも象徴的である。まさに「お前、損してるぞ!」CMなのだ。)

人間を動物として管理する

「これをすると得するよ?」よりも「お前、損してるぞ!」と言う方が、人間の心が動かされるのは自明である。

同じようなことは、昨今のすべてのマーケティングで起こっているように、ぼくには見えている。人間の本能に直接訴える技法。人間を動物園にいる動物を扱うように管理する手法である。先述のCMやネットの炎上商法、果ては選挙戦略に至るまで、人間の感情、本能、無意識を利用して動員する。

ぼくたちのセカイは、情報に溢れ、とても複雑で、とてもぐちゃぐちゃに練り上げられて造られているようだ。その全体は、おそらく誰にも見通せない。しかし、その結果ぼくたちは、とても単純な動物としての本能を利用され、ものを買い、消費するよう促される。そして、管理される。

東浩紀の言う「動物」、宮台真司の言うクソ社会に過剰適応した「損得人間」、石田英敬が言う「技術的無意識」に支配された人間の感性。数年前から知識人たちが警鐘を鳴らす、人間が人間を人間として扱わないセカイが、いま現出している。

さて、しかしポイントカードに対するヘイトを書こうと思っていたこの文章だが、予想以上に風呂敷を広げてしまったようだ。なんのエビデンスもなく、ただ素人が書きなぐった文章をここまで読まれた貴方は、とても奇特な方であることを保証しよう。

しかしこの問題は、実は「弱さ」と密接に関わっていると思うのだ。理性を放棄し、快楽原則に身を委ねる(もちろん、快楽には憎悪することも含まれる。)ことは、れっきとした「弱さ」の表出である。そして、その「弱さ」は否定できるものではない。ここがポイントである。ぼくたちは、この絶対的な呪縛(弱くなってしまうこと)と付き合っていかなければならないのだ。決して「強さ」で克服なんてできない。むしろその発想こそ、反転して「弱さ」の表出に違いないのだから。

この文章を締めるにあたって、あるブログでぼくを取り上げてくれた方がいる。その方の文章を何度も読み返し、ぼくはこの文章を書いている。本来ならおちゃらけたポイントカードヘイトで終わるところ、意外にもぼくの問題意識に直結した文章が書けてしまった。それは多分に彼女のおかげである。

これからも敵のいない戦友として、よろしくお願いします。

(しかしこの表題でここまで読んでくれるかはわからないな笑)

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