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教育って何だろう

「学校教育」について

最近、ツイッターで読書アカウントを作り、本アカウントではあまりフォロワーにおられなかった教師職の方々を意識的にフォローするようにしました。なぜかというと、ぼくのなかで「教育って何だろう」という疑問がむくむくと湧いたからです。

ぼく自身は、学校生活で尊敬する教師も先輩も友達も見つけられませんでした。当然ですが、ぼくの周りの人々が凡庸であったというわけではなく、ぼく自身に問題があったということは重々承知しています。(過去記事「読書をまっすぐ好きとは言えないけれど。」参照。)

ぼくは3人以上の集団に馴染めず、大学のゼミの発表でもグループから外れ、一人で発表資料を作り発表するほどでした。ゼミの先生や周囲の学生からウザがられていましたので、そうすると畢竟独学しかできなかったのです。

ぼくは「教師に何かを教えてもらう」という類の「教育」を受けたという感覚がないのです。ぼくの血肉化している知識や倫理観のほとんどは、独学であると自負しているのです。

これは悲しいことなのでしょうか。たぶん、そうでしょう。学校で受けられたはずの知識や、情感豊かな青春を「教育」されなかったのですから。

さて、冒頭にツイッターで教師職の方を意識的にフォローしていると書きました。ぼくは彼らのツイートを見て、正直うらやましいなと思ったのです。

彼らのツイートは、教師としてあるべき理想の教育を熱く語ったものが多くありました。もちろん疲弊して、いわゆる「ブラック部活」を訴えるものなども多くありましたが、それもどちらかというと「ブラック企業」に対する訴えとは違い、子どもたちへの教育的配慮の問題として捉えているように読めました。

つまり、総じて教師職の方々は仕事熱心に見えたのです。「彼らは人を「教育」できると信じている!」ということに、ぼくはうらやましいと思ったわけです。

これは決して嘲笑しているわけではありません。斜に構えて「へっ、人を教育なんてできるわけないだろ。ゴーマンなんだよ。」と唾を吐きかけているわけでもなければ、堀江貴文の著書のように「教育はすべて洗脳である!」とバカにしているわけでもありません。

これから数年後、否応なく社会人になってしまう子どもたちに自分たち教師はなにができるのかを真剣に考えている、その姿勢に胸を打たれたのです。

こぼれて落ちた人々

しかし先述したように、ぼくは学校教育からこぼれ落ちてしまいました。ぼくの通っていた学校の教師たちも、きっと上記のツイッターアカウントの教師職の方々に負けないくらい「教育」に熱心な方もいたでしょう。ですが、当時のぼくには全くと言っていい程伝わらなかった。どうしてでしょう。

おそらくその理由は簡単です。

それは、ぼくが「弱い」からだったのです。


学校教育の最終目標はなんでしょう。色々と意見がありそうですが、抽象化すれば子どもを「一人前の大人」にすることでしょう。

具体的には、人に優しく自分に厳しく、のびのびと調和的な集団生活を送れるが誰かに依存しすぎるわけでもない。ちゃんと社会的責任を自覚し、仕事をして納税して選挙にも行く。文化の多様性を容認し、マイノリティの差別を許さない。ざっとこんなところでしょうか。

とても理想的な大人像です。まさに一人前です。もちろん絵空事だと批判する人もいるのかもしれませんが、理想に近づけるよう努力することこそが尊いのだ、という反論にはぐうの音も出ないに違いありません。

本章の冒頭に戻ります。ぼくは「弱い」からこそ、この理想に背を向けたのでした。ぼくのなかに渦巻くコンプレックスや、自己顕示欲や、怠惰や嫉妬や欲望やなんやらかんやらが、ぼくを「学校教育」からこぼれ落ちさせたのでした。

前章でぼくが教師職の方がうらやましいと書いたのも、この理想にちゃんと正対できる「強さ」を感じたからです。ぼくには全くできなかったことですから。

ただ、では昨今の日本社会を概観するに、果たしてこの理想に近づいている人および近づこうとしている人が主流になっているでしょうか。

例えば選挙ひとつとってみても、そうではない状況がわかります。選挙に興味を持てない、政治的主張を堂々と話せない、政治と娯楽の違いがわからない(N国参院一議席)、そもそも低い投票率が政治=公共性の喪失を物語っています。

先程来ぼくは自分を「弱い」と書きましたが、ぼくが本当に言いたいことは、このセカイに住まう大部分の人間が「弱い」という厳然たる事実がある、ということです。

そもそも人間の本性が「弱い」のだとしたら、強くなれという「一人前の大人」像を最終目標にしている「教育」は有効なのでしょうか。それに近づけるようにがんばることは、とても無理が生じることではないのでしょうか。

教育と二分化されるセカイ

ぼくには現代社会が、少数の強者と大多数のこぼれ落ちた弱い人々の集合に見えています。少数の強者は、「教育」の理想を体現できたエリートか、もしくは全くその逆の倫理観に支えられたホリエモン的個人主義の亡者のことです。

後者は唐突に出てきたように感じるかもしれませんので補足します。一見、ホリエモン的個人主義の亡者は、上述した「教育」の理想からこぼれ落ちた人に見えます。しかしそうではありません。

こぼれ落ちた人が「弱い」のは、その理想からこぼれ落ちたくなかったからなのです。理想に価値を持っているからこそ、こぼれ落ちた自覚があるからこそ、「弱い」のです。

そういう意味で、ホリエモン的個人主義の亡者は「こぼれて」いないのです。彼らは理想に価値をおきません。さっさと理想から降りているだけなのです。少し文学的比喩が許されるのならば、メフィストフェレスに魂を売った人間は、やはり「強い」のです。(もちろんファウストのように天才でなければ、残念な「弱い」人ですが。)

こぼれ落ちた「弱い」人は、「一人前の大人」像という理想にどんどん距離を取っていきます。前章の選挙の例を出せば、「選挙に行こう!」という言説がまさにそれですね。そう言われて行かなきゃなと一瞬思うけど、日曜日にそれだけのために家を出る気が起きない(または遊びに行っている)なんてことは大半の選挙行かない民のやっていそうなことで、容易に想像できます。

それでは民主主義なんて成り立たないではないか、と思われるかもしれません。ですから、その通りなのです。選挙(特に国政選挙)はまさに「一人前の大人」以外にはできないことなのですから。

マクロ的解決とミクロ的解決

全日本国民が「一人前の大人」になるために何歳になっても日々精進するようなセカイが来れば、民主主義は最高純度の水準まで到達できると思います。もしその半分の国民でもかなりの高水準な民主主義が実現できるでしょう。ですが、おそらくそんなことを期待できません。

ただ、そのようなことを近代哲学の祖カントは考えました。現代の民主主義の根底には、カントのような理想主義が埋め込まれていることはリマークしておいて良いでしょう。

他方、第二次世界大戦後のポストモダン社会においては、カントや、その後続であるヘーゲル、マルクスらの理想主義は棚上げされました。人々が「一人前の大人」にはなれないという前提で民主主義を捉えなおすことが、現代まで試行錯誤されているのです。日本においては、例えば東浩紀が「一般意志2.0」を書いています。この本の詳細はぜひ読んで欲しいのですが、本論の文脈で取り上げれば、人々の無意識がネットに散らばっているのでそれを参考にしようというものです。つまり、「弱い」人に強くなれと言うのではなく、「弱い」ままでいいから情報=欲望だけ集約するシステムを提案しているのです。

ぼくとしては、マクロには東浩紀的な方向しかないように思えます。すべての人に「選挙に行け!」と絶叫し、結果おふざけ半分にN国に投票される悪夢を繰り返すよりは、ネットのビッグデータを使って選挙に行きたくない人に無理に選挙に行かせなくて良いシステムを整備した方が幸福度は増す気がします。

しかし、人がどう生きるかというミクロな問題は、また別にある気がします。ぼくは保守的だと言われようと、やはり人は「一人前の大人」を目指すべきだと思うのです。

そこで話は冒頭に戻ります。ぼくは「教育」の理想からこぼれ落ちた人間です。しかしちゃんとこぼれ落ちた自覚をもつことこそが大事であると思うのです。

具体的に話します。例えば、自分の子どもが「学校の先生の言うことをよく聞きなさい。」と言われるとする。ぼくの経験上、学校の先生の言うことを聞いてよかった試しはありません。ですが、ぼくも「先生の言うことをよく聞きなさい」と子どもに言うでしょう。

また、ぼくは学校で友達ができませんでした。そして、友達ができないことを親から心配されるのが嫌で嫌で仕方なかった。でも、もし自分の子どもが「友達なんて作りたくない。」と言うのならば、「友達を作りなさい。」というでしょう。

もちろん多くの異論があるのはわかります。暴力的だとすら思う人がいるかもしれない。ですが、「一人前の大人」という理想に向かう道筋を「教育」が作ってあげないと、こぼれ落ちることすらできないのです。

ぼくは、自分の子どもが学校の先生の言うことを聞かなければ怒るし、友達ができなければ心配するでしょう。そうやって、ぼくの子どももこぼれ落ちていく「弱い」人間の一人になっていくのだと思います。そして、それでいいのです。


この主張は、ある人にとっては非常にニヒリスティックに感じられるかもしれません。特に教育熱心な教職員の方々には受け入れられない主張でしょう。ですが、実はそれもぼくの狙い通りなのです。教育熱心であればあるほど、理想からこぼれ落ちやすくなるのですから。ただ、彼らの情熱が反転して失望に至ってしまう事態には、一抹の寂しさを感じます。あなた方の熱意は本物であればあるほど悲劇的だが美しい、と無責任に書いておきます。


深夜に一気に書きました。少しお酒も入っているのですが、我ながら言いたいことをまとめられた気がします。というか文章が長すぎる気もしますね。すみません。それ以前にここまで読んでくださった方なんて存在するのかしら。存在するなら最大限の感謝を送ります。ありがとう。

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