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さようなら、33回目の8月

こんにちは、みのくまです。

前回の投稿からだいぶ間が空いてしまいました。残念な事です、ほんとに。

今回は軽くエッセイ的なものを書こうと思います。本当は先週末に行った「あいちトリエンナーレ」の事や、一昨夜に涙と鼻水と嗚咽に塗れてプレイした「ef-the first tale.」および「ef - the latter tale.」についてもひとしきり語りたいのです。語りたい欲はもう臨界点まで達しているといって過言ではない!(ちなみにリンク先はminoriオフィシャルなので問題ないです。この新海誠が手がけた珠玉のオープニングをご覧ください。)

でもやめときます。今回はさらっと書いて投稿する予定なのです。今までめっちゃリソース割いてnoteを投稿していたので、続かなくなってしまう事を回避するためにこれを書いているのですから。

さて、今日から9月ですね。学生さんは今頃深い、それはそれは深い絶望に堕とされている事でしょう。お気持ちはよくわかります。明日から学校だと思うと辛いですよね。それは社会人になっても変わりませんから、ご安心なさって絶望に打ち沈んでください。

ぼくはまた違う意味で区切りを感じる今日この頃なのです。何かと言いますと、ぼくは8月が誕生日なのですね。(誕生日プレゼント、今からでも受け付けますよ!ふるってご郵送ください!)今年で32歳になりました。0歳のときを入れれば33回目の8月だったわけですよ。

今年の夏は色々とありました。上記のように名古屋旅行したり、noteはじめたり、痛風になったり、痛風になったり、痛風になったり…。いや、とくに色々はなかったかな。あれ?

まぁ、ともかくも32歳になったんですよ!32歳といえば坂本龍馬が死んだ歳だなぁとか、あと一年経てばイエス磔刑の時の歳だなぁとか思うと、非常に感慨深いですよ。やっぱり30代って男盛りといいますか、ぼくも何かしら奮起せねばという気になります。

ぼくは痛風だし、酒飲むし、タバコ吸うし、そもそも身体がそんなに強くないこともありまして、日本人男性の平均寿命までは生きないと仮定すると、ちょっと人生折り返し的な気持ちにもなるんですね。孔子は「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」云々と言ってますが、そろそろぼくも天命を知りたいなぁと思います。何を言ってるのかよくわからないですね。うーん。

ぼくはいま、猛烈に勉強欲が高まっています。(「結果にコミットする夏季休暇。」参照。結果は惨憺たるものだったけど。)古典文学から近現代文学、美術、映画、漫画、アニメ、ゲームまで、人間の芸術的な営みを全方位的に学習したい。そういうものを浴びる様に受容した先にぼくが何を思うのか、ぼくがどのようなものに価値を見出せるのか。そして、このセカイのなんたるかを知りたいのです。

いまはまだ眼が見える。徹夜できる体力もある。仕事もあり金も稼げる。低年齢向けのコンテンツもギリギリ見られる。でもこの状態がどれだけ続けられるかはわかりません。そしてそもそもコンテンツを自由に受容できる政治体制も、どれくらい持続するかもわからない。ぼくは漠然と、自分には時間がないように感じているのです。

上述した孔子は、「四十にして惑わず。」と言っていた。ぼくは、三十五までにある程度の基礎的なインプットを終わらせなくてはならない。そして四十までに大方のコンテンツは消費し尽くさないとならないのです。

ぼくの33回目の8月は、昨日終わりました。失った時間は取り戻せないのです。そして、同時に自らの感受性も、体力も、そして自由の効くこの環境も、刻一刻と失っているのです。

決して後戻りのできない緊張感を胸に、33回目の9月へとぼくは足を踏み出したのでした。

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