私たちは抗議する 笙野頼子・北原みのり

笙野頼子さんと怒りを共有し、声をあげます。

【笙野頼子さんの抗議】

 痴漢する権利、とは何ごとであろう。弱いものおとなしそうな者を選び、ことに中学生や小学生を狙う行為、嫌がる人間に対して性という大切で繊細な領域を踏みにじる、性暴力を振るう。幼いものにさえも、時には一生尾を引く程の苦痛を与える。まさに犯罪。
 そのどこに権利がある? 拘留や裁判における人権ならともかく、その犯罪行為自体を権利として擁護すべき、という主張なのか? つまりは犯罪、加害、それ自体を権利だと言うつもりなのか。ならばそれは一体憲法のどこにあるのだろう。
 しかも反語だというのならその反語の目的は何か? 誰を殴るためか?
 まず、殴られているのは何の犯罪もしていない、それどころかずっと被害を受けているLGBTの方たちである。つまり彼女らや彼らを一層苦しめ、その抵抗や努力を無にするためにわざわざしているのである。
 掲載誌p89下段に「個人の生-性-の暗がり」という一句がある。これで文学の陰翳を指したつもりなのか? しかも何もかも自分で背負え、と言いたいようである。だが最悪の場合、そんな自己責任論では、LGBTの方は口をつぐまされ、一生を真っ暗闇の中で終えさせられる。この論考(?)はそんな俗物主義の認識で無意味に不毛に文学に触れている。ところが、文学で描かれた陰翳とはまさに文学の力、かすかながらの光という「リアリティ」の厚み、生命そのものなのだ。つまり現実の読者がそれを支えにするケースはあるとしても、読者が主人公に自らを重ねるとしても、現実と虚構は分けるしかない。なおかつ、虚構がデマ、ヘイト、差別助長のためにひどく使われるなら心ある人は怒るしかない。
 そもそも性だけの問題なのか。尊厳の問題だ。しかも社会との関係性の問題である。人は光を求める。社会的存在である。光の下で、好きな人と暮らしたい。
 というかこの痴漢擁護論考、文学についても全体についても論考とも何とも呼べぬ低劣さである。何も言っていない。すべてを貶めて卑怯犯罪や猥褻語で汚し、下劣な一人合点をしているだけだ。
 あるいは最初から痴漢被害者をも侮辱するつもりだったのかも。

 そもそもつい昨日まで、小川榮太郎などという文藝評論家がいるという事さえ私は知らなかった。

 まったく、権利権利、痴漢する権利、なんという高らかな犯罪幇助宣言か。で? 今後の改悪憲法において、「痴漢権」と自衛隊は並ぶのであろうか。
 七月に発表した拙作「ウラミズモ奴隷選挙」の中で私はこう書いた。女人国で一番優秀な少女猫沼きぬが、作中のにっほん国を嘲って放つ台詞である。「ええと、それは例えば、全ての男性の性的満足がない限り、我が国の男性保護は未完成であるだの、また、痴漢をする自由は性の多様性なので、性的弱者を保護する牧場なら、男女平等の見地から、痴漢に少女を襲わせなくてはならないだの、そしてそういう馬鹿げた言いぐさにさえ」……。
 先進国の中でジェンダーギャップ最下位という今の日本、ネットを見ていると確かに物凄いのがいる。とはいえ、いくらなんでもここまでの馬鹿はいないだろう、ここまではひどくはないだろう、と思ってせいいっぱい私は、デフォルメしたつもりで、この痴漢大国の言い分を書いた。が、……。
 下には下がいるものだ。これがリアル三次元で生存しているとは、文藝(?)評論(?)家だそうだが、藝の字が哀しい。ゾラにマルクス、そこから仏教、まったくこんな枚数で論じられるはずもない「壮大な宇宙的展開」である。思考密度はゼロ、論考としての流れすら立っていない。というか、すべてまぎらかし。結局は性犯罪者の不当擁護と性被害者、差別被害者への自己責任論、さらには顧客を意識してなのか保守エロ語の連発、そこだけがテカテカとどや顔になっている。別に確信犯とか言うレベルでなく、まさにお仲間のいる状況で安心して放つ、本人の「人間性」……、あっ。

 そう言えば、最近ので似たようなのをひとつ思い出した。
 現総理の「テニスや将棋なら」いいのかというあの言説である。主語を違え、論点をずらし、よそごとを言いながら、白目を剥いて胸を張っている。見ていられない。まあ「壮大な宇宙的展開」はついてなかったけど。同じものと言える。
 それはかびの生えた、だだもれ、口先だけその場だけ、言いこしらえれば実態はどうでもいいという、「ひょうげんがすべて」、妖怪ひょうすべの、ひょうすべ節である。

 こんなくだらない論考に対応してしまっている自分は「かわいそう」か? しかし、今の日本に蔓延しているものを見過ごしてはならない。

                        2018年9月20日 笙野頼子


【北原みのりの抗議】

私のこの一週間は、台湾での「慰安婦」像を足蹴にした男の事件から始まった。台湾の友人から毎日のように、この台湾での報道が送られてきた。 “性暴力被害者の声に耳を傾け、被害者中心主義の視点から性暴力問題を考える”という、民主主義国家の現在の基準から考えれば、「セクハラという罪はない」と大臣が堂々と語るような国とはいえ、性暴力被害の歴史を記憶する像に向かいスーツ姿の日本のオジサンが足を向けている映像は、相当な衝撃だったはずだ。
 
「 新潮45」事件を知ったのは、そんな台湾の友人とやりとりをしている最中だった。
 ”「生産性」という言葉だけを切り取るな。彼女は事実を語っているだけだ“
新潮45に寄稿した7人ほぼ全員が、そのように杉田を擁護していたが、それはそのまま、「慰安婦」像を蹴った男の言い訳と重なった。足蹴男は最初にこう言い訳をしたのだ。
「一瞬を切り取った写真で判断するな。私は足をストレッチしていただけだ」
気が遠くなるほどのばかばかしさ。だけれどこれが、私たちの現実。台湾人の友人は私に「日本に暮らす女じゃなくて良かった」と心から言った。
 
今回の新潮45の杉田水脈発言擁護は、「LGBTには生産性がない」発言の暴力性をさらに醜悪に拡大させ、言論暴力による被害を広げた。その最たるものが小川榮太郎という人だろう。彼は際だって雑で愚かだった。LGBTを茶化してSMAG(サド、マゾ、お尻フェチと、痴漢だって)をいう彼の造語を披露し、LGBTの権利とはSMAGの権利をうたうようなものだとする。かように彼は性的指向と性的嗜好の区別をつけられず、暴力とセックスの違いも曖昧で、セクシュアルマイノリティの権利と痴漢の権利を記号のように同等に並べた。なにより「(痴漢の)触る権利を社会は保障するべき」という衝撃的な暴論ですら、彼にとってはSMAGを思いつくくらいの、おふざけ、お気軽さなのだろう。
嘘と卑怯を厭わない言葉は、わかりやすい暴力の顔はしていないのだ。それは半笑いで、おふざけっぽく、そのくせ「色んな意見が大切、議論しましょうよ、言葉狩りせずに、きちんと理解してくださいよ」とどや顔で卑怯ながらも堂々としている。
 
杉田水脈と小川榮太郎は「民主主義の敵」という本で対談をしていた。AV出演強要も、JKビジネス被害も、「慰安婦」問題も、反日フェミニストによる陰謀であり、現代日本社会には女性差別はないと考える杉田水脈と、痴漢の権利を言う小川榮太郎の良コンビのこの本を、さきほど、私は苦労しながら読み終えた。その中に興味深いエピソードがあった。杉田水脈は大学生の頃、偶然、土井たか子さんの演説の場に出会う。当時の総理大臣よりも人気があり、切れのある演説する土井さんの格好良さに憧れたという。その数年後に杉田は土井たか子さんの演説を聞き、妊娠中だった彼女は「お腹をなでてほしい」と土井さんに頼んだという。
私は杉田水脈とほぼ同世代だ。あの当時、山を動かそうとした土井さんの力を、若い女として見上げるように眺めていた私と杉田水脈は、もしかしたら同じ目をしていた。なんという皮肉なのだろう。ものを言う議員に憧れた杉田水脈が、性暴力被害者の口を塞ぐ声をあげ国会議員のバッチをつけているとは。「山は動いた」あの年から、平成のまるまる30年間。この社会が第二の土井たか子を育てるどころか、杉田水脈を産んでしまうとは。
 
人権の価値を貶め、性の問題を矮小化し、積み重ねられた知を無力化することを厭わない出版の暴力。自由な議論の体を装いながら、その中身はただひたすら個の尊厳をひたすら奪うヘイトだ。
私たちの生きている地獄の名前は何だろう。
新潮45の姿勢と小川榮太郎、そして改めて杉田水脈発言に、強く抗議する。

                       2018年9月20日 北原みのり


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Minori Kitahara

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