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No7:【中国語で収入を得るようになってから③】(中国人の駆け込み寺)2007年~2010年

主人のうつ病で足かけ5年間ほど家庭経済事情は悩ましい感じでしたが、2007年に主人が東京へ就職し中国に行くようになってからは、私は大阪で自由にお仕事へ集中!中国語に関係する事ばかりやっていました。

第8章 言葉のサポート期 駆け込み寺  

中国語の法廷通訳はかなり多いペースでお仕事が入り、それに伴う接見も多かったです。そして時々、中国語のテーブル通訳、視察通訳、工場案内通訳、商談会、レセプション通訳…ちょこちょこと入ってきました。

そしてこの頃から意欲的に参加していたのがボランティア通訳でした。以前通訳学校で知り合った方が平野区でボランティアの日本語サポートを開き、私もお手伝いでボランティアを始めました。

私は、日本語教室のほか、その代表の方と中国人の方と一緒に病院や役所について行って中国語の通訳をしていました。そして在日中国人のお子さんが日本語に問題が出てきたということで、子供のための日本語教室も開催、その中でも、中国人の小学校2年の女の子が、中国では幼稚園にも行ったことがなく、農村育ちのまさに野生児!ということで、毎週土曜日一緒に勉強をしていました。

それでも時間が足りなくて、学校と相談して夏休みと冬休み春休み、毎日午前中、学校に行って、学校の廊下(笑)を借りて算数と国語を一緒に勉強しました。学校の長期お休み中、毎日ですよ、暑かった!

その子は学校ではもうみんなとレベルが違うので、先生からは答えを写すように指示されていて、すっかり「答えを写すことが勉強」だと思っていました。すぐに床に寝転がる、すぐに「いやや~」と投げ出す、机の上を走り回る…でしたが、少しずつ少しずつ、絵本を読んだり、ゲームやクイズ感覚で勉強をしていくようになっていきました。少し足し算ができるようになって、言葉で気持ちが表現できるようになって、絵本がわかるようになって、本が自分で読めるようになって、算数の応用問題の日本語の意味がわかるようになって…

人をたった一人助けることが、こんなにも大変だということが良くわかりました。たくさんの人の力も借りて、小学校→中学校→高校サポートしてきました。そして数年前に成人式があり、その時に「〇〇先生と、須磨先生と○○先生のおかげや」(大阪弁ですね(笑))という言葉をいただきましたよ。

さて、日本語サポート&通訳サポートをしていると、困っている中国人からよく電話がかかってくるようになってきました。何で私の電話番号を知っている?というくらい、相談の電話がかかってきました。

中国人からの相談内容は、書類の記入方法や入居に関してなどの簡単なものから…病院へ付き添うもの(中国の方は小学校の子供を学校を休ませて通訳代わりにしているので、通じない事が多い)などの簡単なものから、じつは結構ディープなものの方が多く…

例えば「夫が浮気しているので通報したい」「両親が警察に連れていかれた」「夫が警察に捕まった」「旅行で来ていたおじいちゃんが窃盗で警察に捕まった」「夫が交通事故にあって病院へ」「夫から殴られた、今救急車で須磨先生の家に向かっている!」「離婚して子供の親権を私へ」「水筒に毒が仕込まれているかも」「妻が再婚するけれど、僕はどうしたらいい?」「工場に泥棒が入った」「夫がいま喧嘩に巻き込まれてる」などなど…

まさに「中国人のための駆け込み寺」でした。電話が突然かかってくるし、相手も興奮しているので話のスピードが速い!話の内容を聞き取るのに、すごい集中力とリスニング力が必要でした。電話の後は汗びっしょり!でした。その後、聞き取った内容をもとに弁護士さんと連携して、警察に行ったり、拘置所にいったり…。自首に付き添ったり…。家庭裁判所で代理人務めたり…。愚痴を1時間聞いたり…いろいろ解決してきました。このあたりのエピソードは本が1冊書けるくらいです。

最後に一件、殺人事件があったのですが、これは…気持ちがしんどく、それでも刑事事件→民事事件、最後の最後まで一緒にやりきりました。そういえば、途中で船を降りたことは一度もなかったですね。

裁判所の法廷通訳とボランティアでの事件通訳は、全く異なるもので、本当に人生そのもの!や外国人が日本で生活する時のトラブルなど、考えさせられるものがありました。この頃は誰かをサポートする事に意欲的で、自分の中国語が誰かの助けになって解決できたり、喜ばれたりすることだけが、ただただ嬉しかったです。

とにかく、主人が9年間ほど単身赴任だったので、私には24時間時間があり(愛する文鳥がいましたが)、自由に動けました。ほぼ全て仕事していました。仕事が楽しく、仕事命!でした。

そして、2006年頃からは、通訳学校から中国語講師のお話もあり、出講先は夜間や遠方も多かったのですが、全てこれらも引き受けていました。

時代は中国駐在ブームもあり、赴任対策、試験対策、メーカー、ホテル、官公庁の中国語法人研修から、そして2009年からは専門学校でも中国語講師を始めることになりました。定期的に出講の曜日が決まってきて、翻訳会社に週に数回も通う事が難しく、4年間ほどお世話になった翻訳会社は別の方へバトンタッチしました。

中国語通訳は楽しくできる時もありますが、そうでない時もあります。

辛く今でもずっとずっとトラウマになっている案件もありますよ。

2010年のとある大規模フォーラムの時に、中国側へプレゼンするA4びっしり20枚の内容を、「これ今からのプレゼン関連資料見ておいて!」と空港で渡されて、30分間バスの中で焦りながらみたけれど、技術的な事が多く結局、通訳できなかった痛い記憶が…その2泊3日間ずっと小さくなっていました。

今…これを書きながら思った!よく考えたら「無理やろ~!」。書くのも痛い思いででした、これずっとトラウマになっていました!!

前にも書きましたが、通訳は事前の知識や背景を知らないと訳せません。いただける書類は、無理を言ってでも事前に頂きましょう。

波乱は…まだまだこれからです。

次回へ続く


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