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学振ラットレース

年末から書いていた博論に引き続き、学振の申請書を書き終わって、ようやく、束の間の息継ぎをしている。

学振というのは、日本学術振興会の特別研究員という、若い研究者を金銭的に支援するための制度(2、3年間、生活費がもらえる)で、多くの大学院生やポスドクが、例年凌ぎを削って申請書を書いている。

この申請書の最後には、
「本制度は、我が国の学術研究の将来を担う独創的な研究者を育てることを目的としています。これを鑑みて、目指す研究者像を書いてください」
・・というような項目があって、わたしはなにを書くべきか、筆を留めてしまったのだった。

大学や大学院の授業料を上げておいて、「選択と集中」のもと、若手研究者たちに、こういう申請書のフォーマットを埋めさせて競争させている限りは、「独創的な研究者」を育むことなんて、絶対にできないように、わたしは思う。

そして、こういう競争のなかで、「学振に受かるコツ」みたいな本を、研究者が出版したりして、ありがたく多くの大学院生がそれを読んでいるという現状すらあったりする。(ノウハウ本の内容も、「大学受験必勝法」みたいな本と同じような感じで、本当にしょうもないと私は思う)


本来、学術書を読むための時間が、そういう「申請書の書き方」的な本を読む時間に充てられているわけで。それは、すでに与えられた制度のなかで「うまく」生きていく方向性ではあるかもしれないけれど、じつは、本当のところ、何も生み出していないように思う。
(もし、そういう「申請書の書き方」系の本を出版する意図が、ノウハウ本の前書きが示唆しているように、現状の「書き方」のノウハウが一部の大学に蓄積していて不公平だという問題を解消したいことにあるのなら、わざわざ本で出して大学院生からお金取ったりせずに、インターネットで全文公開すればいいのに、と私は思う。)


なんだか、ラットレース感が、わたしには拭えないのだよな。

制度の側の問題には目を向けず、与えられたフォーマットのなかでゲームさせられている感じ、どうも、わたしは馴染めない。
大学と大学院を無償化しない限りは、研究競争力の回復も何も。大学生みんな、生活のためのバイト(時給1072円)で精一杯で、勉強どころじゃないんですけども・・、という感じがしてしまう。
(なお、ラットレースと書きましたが、ネズミを差別するつもりはありません。)

大学院生全員が、今年の学振の申請書に使ったエネルギーを使って、国会前でデモでもやれば、それだけで状況は大きく変わりそうな感じがするけれど、申請書を通した大学院生が得意げにnoteの有料記事で申請書のノウハウを開陳している現状を見ると、やっぱりわたしは、この国の将来は絶望的だと思う。


学問の助成金に限らず、芸術の助成金でもそうだと思うけれど、「役にたつ」とか、「能力がある」とか、「理想の研究者」とか、そういうもっともらしい、私たちの生きることを意義づけてくれそうな言葉自体、まったく創造的でない。
そういう、わたしたちの想像力を奪っていく言葉たちに対して、わたしは警戒し続けていきたいと、改めて思う次第であります・・。





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