見出し画像

サマーコテージでお皿を洗うという行為

お誕生日に日本から届いたサプライズプレゼントの山の中にあったみなみからの本を読んでいる。『えいやっ!と飛び出すあの瞬間を愛してる』という小山田咲子さんのブログの記事をまとめた本。タイトルからも分かる通り、人生への愛が詰まった素晴らしい本だ。小山田さんが早稲田大学の学生だったときに綴られた2002年~2005年までのブログ日記から選りすぐりの記事を読むことができる。小山田さんは本当に魅力的な人だったようで、歌や詩で賞を獲ったり、休みの度に世界や日本を歩き回ったり、様々な本を読んで色んなことに好奇心旺盛な、素敵な女子大学生だったようだ。ブログは時にただの日記で、時に講義や読んだ本に感銘を受けた際の感想文で、時に社会や人生に対する深い洞察が書かれていたりするが、どれも本当に面白く、そして素晴らしい文章力。みずみずしくて、素直で、謙虚で、見たもの、感じたもの、すべてに愛がある。読んでいると、彼女のように世界を眺めてみたかったと思う。どうしてこんなにひねくれた物の見方しかできなくなってしまったのかなと自分の穿った思考方法に首をもたげてしまう。

小山田さんは2005年9月、アルゼンチンを友人と旅行していた際、車が横転する事故に遭い帰らぬ人になってしまった。読み始めてしばらくしてから知って衝撃を受けた。こんなに素晴らしい人が、約9年前に突然命を断たれてしまったなんて。それも24歳という若さで。彼女が生きていたら、この9年間にどんなことを成し遂げただろう。才能溢れる女性ではあったが、彼女は同時に普通の人でもあり、わたしと年齢は一つしか変わらない。わたしの知らないところで面白いブログを綴り、わたしの知らないところでこの世を去ってしまった。しかし彼女の文章を読み、彼女の生活を垣間見るにつれ、どんどん友だちのような気もしてくる。だからこそ彼女の死はとても悲しい。ここに、等身大で文章を綴っていた小山田さんの姿に感銘を受けて文章を書いている者がいる。彼女の文章はたくさんの人に影響を与えたことだろうと思う。わたしの気持ちが小山田さんに伝わればいいのになぁと思う。

表題の件に話を移すが、わたしは数ある家事の中でもお皿洗いが大好きだ。昔寿司屋で約2年間皿洗いのバイトをしていた。1時間千円、18歳にしては割のいいバイトだったと思う。しかも、住んでいたマンションの1階にその寿司屋はあったのだ。通勤時間は15秒、それでもたまに遅刻した。お皿をひたすら洗い続ける4時間を週に3日、2年間繰り返すという行為はわたしに色々なことを教えてくれたと、後になって思うようになった。「効率的かつ完璧に食器を洗うとはどういうことか」「自分の手で汚れを落とすとはどういうことか」「台所を美しく保つとはどういうことか」などなど。今でも食器洗いほど抵抗なくできる家事はない。人のうちでもご飯を御馳走になったら積極的にお皿洗いを申し出る。友だち同士だと「えっ!!いいの!?わたしお皿洗うの大嫌いなんだけど!」と結構喜ばれる。わたしからしたら、趣味、といえるほどではないけれど、結構その一歩手前くらいの行為なので、気楽にお礼ができる方法のひとつだ(むしろ御馳走になったのだから完全にお言葉に甘えて、お皿洗いなんて申し出るべきではない場もあるとは思うが)。そして、自分で言うのも難だけど、通常の人より速く、丁寧に、そして洗い残しなく洗える自信もある。なんせ皿ばかり洗ってきたのだ、2年間も。

お皿を洗う時の、手に水が当たる感じが好きだ。自分も清潔になった気がする。洗っている間、集中はしているものの他のことを考えられるあの時間も好きだ。食後にタバコを吸って落ち着く人がいるように、わたしは食器を洗うことでひとり考え事をしてリラックスをしていると言っても言い過ぎではないかもしれない。

ところで、イギリスではお皿の洗い方が日本とは異なることを御存知だろうか。日本では「流し」というが、英語では「シンク」と呼ぶように、イギリスでは流し台に水を溜め、洗剤を入れ、そこにお皿を沈め(シンクす)る。水の中でブラシで洗い、そのまますすがずにお皿を乾燥ラックに立てる。時間が経てば泡は下に流れ落ちて、お皿は乾く。それを次の食事で使用する。日本人にとっては「ええっ。ゆすがないの!その上に食べ物を乗っけるの!」と抵抗感がある人もいるかもしれないが、イギリス人にとってはこれが当たり前の洗い方。日本人のように流水を使ったりはしないのだ。

フィンランド生活では食器洗い機があるので普段はあまりお皿を洗わないが、それでも小さな食器や鍋、包丁などは毎日手で洗う。またゲストなどが来て、フォークやナイフが足りなくなったら食器洗い機に入れておいたものを取って来て洗わなくてはならない。ちなみに、フィンランドでは食器を洗う時、スポンジではなく長い柄の先にプラスチックのようなたわしがついたブラシで洗う。手を汚さない上にカラフルな色合いでまさにロジカルなデザイン大国、とかつては感銘を受けたが、汚れが落ちたかどうか直接指や手のひらで確認できないのがとてももどかしい。柄が長い分そこまで力を入れられないので上手に洗えず、こびりついた汚れなどは結局爪や指の腹などで洗うことになる。思えばこの国は台所のタイルなどもモップで拭く。立ったままササっと掃除できるのでやっぱり合理性を重要視する文化ならではだが、わたしは結局捨てていい布などでしゃがんで雑巾がけをしないと気が済まない。手に、汚れを落としているという確かな感触を感じないと、掃除した気になれないのだ。汚れにコミットしてこその掃除。スポンジを握るその指の、その爪にかかるパワーでこびりついたパスタをこそげ落としたいというわたしの願望は「五人組」制度、「一億総中流」「赤信号 みんなで渡れば怖くない」などの日本人のメンタリティからきている…というのは考え過ぎだろうか。なんせフィンランドをはじめとしたヨーロッパでは、汚れと人間に距離がある。ブラシやモップの長い柄がそれを語っている。食器洗いのブラシやモップに、西欧の個人主義を見た気がするのだ。西欧人は、他人にも冷たい。そして、汚れにも冷たい。この「冷たい」というのは日本人ならではの感覚だ。他人と自分の境界線が薄い、責任範囲に明確な区切りをつけない、「なぁなぁ精神」の日本人にとっての「冷たさ」つまり非合理性。わたしの掃除論には非合理性がある。と、ここに来て己の日本人さに気づかされた。

しかしサマーコテージに行くと話は別である。食器洗い機どころか水道さえないので、サマーコテージでのお皿洗いは一層大仕事となる。まず、湖や井戸から水を汲んでくる。バケツ1~2杯を運ぶ。その水を鍋に移しオーブンの上に置くか、または電気ケトルで沸騰させる。さらに違うバケツの中に冷たい水と沸騰したお湯を入れて、ちょうどいい温度にする。次に、プラスチックのトレイを2つ用意する。両方にちょうどいい温度の水を入れ、片方に洗剤を入れて泡を立てる。そこに使った食器を入れ、その中で洗う。次にもう一つのプラスチックトレイですすいで、乾燥ラックに立てていく。これがとても楽しい。時間がとてもかかる。便利なものはどこにもない。なんか、洗ってる気がする。サマーハウスに来なければ食器洗い機に食器を放り込んでボタン一つでピカピカに洗えるのに、わざわざ車や電車やボートに乗ってサマーコテージにやってきて、ここで水道や電気のない暮らしをする。なんとい非合理性。わたしはこの行為が好きでたまらない。そしてこの暮らしが好きでたまらない。非合理性の先には合理性がある。周囲の自然を守るため、自然の中で暮らして自然との調和をはかるため、都会の便利さから身を離しても十分に生きていけるという人間のたくましさをもう一度思い出すため。サマーコテージでは使える資源や物が限られていて余計なことはできないので、かえってすべてのことがシステマティックでプラグマティックだったりする。非合理性と合理性は二元論では語れないのだ。うーんポストモダン。そんなくだらないことを考えながら食器を洗う、この時間がとにかく好きなのだ。

【アーカイブ】

フランスについて、2014年夏に思うこと:

https://note.mu/minotonefinland/n/n5bbe675bd806

エミールの故郷への旅(前編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n8d7f3bc8d61d

エミールの故郷への旅(後編):

https://note.mu/minotonefinland/n/n6ccb485254c2

水とフィンランド:

https://note.mu/minotonefinland/n/n82f0e024aaab

ヘルシンキグルメ事情~アジア料理編~:

https://note.mu/minotonefinland/n/nb1e44b47da30

なぜそもそもMINOはフィンランドへ?「わたしがフィンランドに来た理由」:

https://note.mu/minotonefinland/n/nf9cd82162c2

普段の食事についての「ベジタリアン生活inフィンランド①」:

https://note.mu/minotonefinland/n/n9e7f84cdc7d0

Vappuサバイバル記・前編

https://note.mu/minotonefinland/n/n2dd4a87d414a

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?