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生きること、変わること、学ぶこと

先月ヘルシンキ国際映画祭(HIFF)が催され、そこで上映されたドキュメンタリー映画”Mother's Wish (邦訳するならば『母の祈り』フィンランド語のタイトルはAiden Toive)”を観た。

監督のJoonas Berghällは前作”Steam of Life(邦訳するならば『人生の蒸気』フィンランド語のタイトルはMiesten vuoro)”によってフィンランドのみならず世界中から注目を受けるようになった若き新鋭監督である。前作はサウナの中で語るフィンランドの男性たちの様々な人生(アル中になりDVをはたらき、今は後悔の念と孤独に苦しむ男性や、妻と何十年もサウナに入り続け、お互いの老いた身体を洗い合う喜びについて語る男性など)を題材に撮ったドキュメンタリー映画で、多数の映画祭のドキュメンタリー部門などにノミネートされ、受賞も多くした。2009年の作品である。

この作品は友達からDVDを送ってもらって観たが、観終わった後はなんとも言えない物悲しい気持ちになり(なんせ何人もの男性の人生を一気に見せられたのだから)、フィンランドの社会の暗い側面を垣間見ることができた機会に感謝した。

今回の上映作品にはわたしの友人も製作に少々携わったということもあり、こぞってみんなで観に行ったのだが(大人数の友達と映画館の椅子にばーっと一列に並んで観るのってほんとに楽しい)、上映前には監督とプロデューサーによる舞台挨拶があり、「前回は男性の人生に迫ったので、今回は女性の人生を撮りたかった」というフィンランドならではのちょっと冗談まじりの製作背景の紹介があった。本編はユニセフをはじめ様々なスポンサーからの資金を得て南アフリカ、英国、カナダ、フランス、ケニア、メキシコ、ネパール、ポルトガル、フィンランド、ロシア、アメリカ合衆国など世界各国の母たちのそれぞれの人生を追った、非常に感慨深い映画だった。

たくさん出て来た世界の母親たちの一人である、ネパールの女性の例を紹介したい。伝統的風習としての強制的な結婚に従うことを拒否したこのネパールの女性(確か当時14歳)は、実の兄や父親から殴る蹴るの暴行を受け、仕方なく結婚を受け入れ子どもをもうけるが、それ以降も夫を愛することも夫から愛されることもなく、家庭内暴力をつねに受け続け、ある日とうとう逃げ出す。しかし、社会的に離婚が許されていないため、彼女は実家からは一切の支援を受けるどころか「娘は死んだと思っている」と告げられてしまう。はじめは途方に暮れるが、子どもたちを抱えて山奥へ逃げ、現在はそこで過酷な農作業をして家計を支えている。彼女のただひとつの願いは「子どもがたくさん勉強をして良い仕事に就き、貧困階級から抜け出し幸せになってもらうこと」。

86分という短い時間の中で、様々な国の母親たちが、それぞれが抱える悩み、苦しみ、悲しみ、喜び、愛を語るが、冒頭の監督自身と監督の母親のシーンも良かった。監督が幼い時、母親に腫瘍が見つかり、手術が成功する可能性はそこまで高くはないと伝えられる。監督はうなだれ、絶望し、手術後に病院から受けた電話に応える時に感じた受話器の重さは今でも忘れられないという。その後のシーンは、数十年経った現在、真っ白な雪原に佇む小屋のデッキでコーヒーを飲みながら、空(くう)を見つめる2人。大地も空もただただ白い。見渡す限り真っ白な景色の中で黙り込みながら、静かにコーヒーをすする時間が流れる。ここでどうやら、あぁ、手術は成功したんだ、彼女は今も生きているんだ、と観客は安心させられる。そして、じゃあ、行くね。と青年は告げ、母親を抱きしめ、スーツケースを持ち歩き出す。元気でね、も、愛してる、も、また来てね、もない。実にフィンランドらしい。こんな愛の形もあるのだ。(笑)

この映画を観て、かつて日比谷で観た2007年のフランスのドキュメンタリー映画『プルミエール 私たちの出産(原題:Le Premier Cri)』を思い出した。

文化・人種・環境が全く異なる10カ国の出産事情を扱った映画だが、アメリカ合衆国のヒッピーコミュニティーで自然分娩を行うヴァネッサと、ニジェールの砂漠で出産するトゥアレグ族のマニの出産がとても印象的だった。日本での出産には、愛知県の有名な吉村医院での自然分娩が映されていた。しかしこの映画自体「ニューエイジでホメオパシーでマクロビオティックでオーガニックな人々向け」と批判も多くされている。吉村医院についてはテレビでもよく特集されていて、当時わたしも興味津々だった。トンデモという意見も多く見受けられるが、この映画はオルタナティブな出産観にフォーカスを当てたかったということなのかな、と思う。

ドキュメンタリー映画で好きなものはたくさんある。『ハーブ&ドロシー』、『A』、『シャイン・ア・ライト』、『デブラ・ウィンガーを探して』『ブロードウェイ・ブロードウェイ』、『ファッションが教えてくれること』、『女と孤児と虎』『ビル・カニンガム&ニューヨーク』などなど、挙げだすとキリがない。最近観た”Bowling for Columbine(邦題:ボウリング・フォー・コロンバイン)”も傑作だ。大学1年生の時に試写会に行って観て、大学の授業でも何回か紹介され観て、今回また久しぶりに観たのだが、やっぱりとても良かった。

この映画はコロラド州のコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を契機にマイケル・ムーアが事件の背景と原因を探るドキュメンタリー映画で、アメリカの銃による殺人事件の多さ、市民の恐怖を煽るメディアの在り方とその心理の歴史的発端、いまだ消えることのない人種差別、貧困問題にも迫る映画で、この映画は世界中で大ヒットし、カンヌやオスカーで賞も受賞した作品である。オスカーでの受賞スピーチで「不正な選挙で選ばれた、にせもの大統領ジョージ・ブッシュによる、正義なきイラク戦争に反対する」と言い、会場からブーイングを受けたマイケル・ムーアは、この後の作品『華氏911』では不正選挙、虚実に基づいて開始したイラク戦争などを題材にしてブッシュ政権批判を行い、カンヌではパルム・ドール(最高賞)を獲るのだが(上映直後に25分間のスタンディング・オベーションもあった)、本作では銃犯罪を生み出すアメリカの社会問題について以下のような視点と考察を挙げている。

①アメリカで起きる銃による殺人事件の多さ
アメリカには2億5千万丁の銃(国民一人に1丁)が存在し、それによって毎年11000人を超える人が殺されている。ちなみに1年における銃による殺人事件は日本では39人、イギリスでは68人。これらの国は一般市民による銃の所持を禁止している国なので数が少ないのは頷けるかもしれない。しかしカナダは、国民当たりの銃の所持率は高いが、銃による殺人件数は1年で165人だ。ムーアはなぜ、このような違いが現れるのか原因を突き止めるため、試しにカナダの一般人の家の玄関を突然開けてみる。鍵をかけている家はどこにもなく、ドアはすんなり開くわ、家の中の人は銃も構えずそこにいてニコニコしているわ、カナダの人々は非常におっとりしているように描かれていた。「知らない人がいきなり来たらどうするの?強盗に遭ったらどうするの?」と尋ねるムーアに人々は「強盗に遭ったこと、あるよ!人がうちに入って来て、色々盗まれた。でも鍵はかけないよ。自分が家の中に閉じ込められてしまう気がして嫌なの。おかしい?」と答えて笑うのだ。一方のアメリカでは、老若男女が揃って銃を備え、自主訓練をし、「自分の家は自分で守らなきゃ!外からやってくる凶悪な誰かに殺されるなんてたまるもんか!」と口々に言うのだ。アメリカ人の持つこの「恐怖」はどこからくるのか?という疑問がここから生まれることとなる。

ちなみにカナダは一般市民が狩猟などのために銃を持つことを認めているが、ライセンス(許可)制であるのに対し、アメリカはアメリカ合衆国憲法修正第2条によって国民の武装化を認めている。(2013年1月にオバマ大統領が銃規制強化案を発表したときも、共和党が同案は憲法修正第2条に抵触すると反発したため上院で否決された。)
また、銃愛好家たちによる事実上の圧力団体である全米ライフル協会(莫大な額の政治献金を行っており、政界に対する影響力が非常に大きい)が銃規制に強い反対の意を示していることも銃規制強化を困難なものにしている。

②アメリカにおけるメディアの在り方とその心理の歴史的発端
アメリカ人の持つ恐怖はメディアが再生産している。テレビ、新聞、様々なツールを駆使して、「何か恐ろしいものが外部からやってくる」というイメージを意識の中に刷り込んできた。それは一体誰なのか?実体はない、恐怖という概念の一人歩きが人々を狂気の中に招き入れる。ムーアはこのような心理はアメリカの歴史に端を発していると分析する。(劇中に使われていた3分間のアニメ”A Brief History of the USA(アメリカ合衆国の略史)”はここで観ることができる。

イギリスで宗教弾圧に遭った清教徒たちが恐怖から逃れ安住の地を求めてアメリカ大陸にやって来た時、そこには先住民であるネイティブ・アメリカンがいた。言葉も文化も違う先住民たちを彼らはまず銃で殺し、領土を奪っていった。その後彼らは自分たち同士に恐怖を感じるようになり、魔女狩りで殺し合い、1775年にはイギリスと戦争をし、支配の恐怖から逃れるためにたくさんのイギリス人を殺し、独立を勝ち取った。しかし不安おさまることはなく、アメリカ合衆国憲法修正第2条を作り、「武器を所持して携帯する権利」権利が市民に認められた。その後アメリカ人たちは、楽に豊かに暮らすためにアフリカから無料で使役できる黒人(注:アフリカ系アメリカン人だが、アニメではそのように表現されているためこの言葉を使用する)を大量に連れて来て奴隷にするが、増え続ける黒人に次第に不安を感じるようになり、さらにサミュエル・コルトによるリボルバー拳銃の発明によって拳銃は一般市民に普及されることとなった。リンカーンにより奴隷解放宣言が発され奴隷たちは解放されたが、復讐を恐れた白人たちは、KKKを結成し黒人への差別、嫌がらせ、暴行、殺害を行い、法律により黒人の銃の保持を禁止する。復讐どころかただ家族と穏やかに暮らしたいと願い黒人たちを「恐怖すべき対象」として見なし、黒人隔離政策は当たり前のように施行されていたが、1955年、アフリカ系アメリカ人公民権運動が始まり、彼らのプロテストは本格化するごとに、白人の恐怖は増大し郊外に逃げ家を構え、鍵をかけ銃をこぞって買いそろえ、右も左も敵だらけ、という心理状態に陥っていく。そしてアメリカの白人たちは手当たり次第にすべてを恐怖の対象とし、その恐怖から身を守るために銃を持ち歩き、誰彼構わず発砲するような意識を持つに至る。

④人種差別と貧困問題
2000年にムーアの故郷、ミシガン州のフリントの小学校で起きた発砲事件は、6歳の男児が6歳の女児を射殺してしまった全米史上加害者が最年少の銃による殺人事件である。この男児はその日の朝、預けられていたおじさんの家で見つけた銃を持って小学校に向かったのだが、彼がなぜクラスメイトに銃を向けたのかは明らかになっていない。6歳の息子の犯した罪は母親の管理責任にあるとしてその母親に批判が向けられたのだが、その点についてムーアは疑問視する。

この家族は有色人種で、職もなかった。ムーアの『華氏911』で言及があるがフリントの失業率は50%を超す。クリントン政権に福祉を打ち切られ、貧困に苦しむシングルマザーの母親は地方政府の援助プログラムの「救済」を受けるが、その内容は1日5~ 6時間の通勤時間を費やして仕事のある高級住宅地のデトロイトに行き、最低賃金5.15ドルという低賃金の仕事を二つかけもちさせるというものである。それでも家賃が払えず、事件の数週間前に家を追い出された母親は、息子を弟の家に預け、まだ太陽も上がらない真っ暗な早朝に長距離バスに乗り仕事に出かけていく生活を送っていた。そのような状況で、6歳の息子の管理責任「今アメリカがすべきことは、巨額の税金をイラク戦争に投入することではなく、仕事のない人に職を供給し、貧しい人、生活困窮に陥る人のために福祉と生活保護を充実させるべきなのではないだろうか」。というムーアの主張は彼の次の作品『シッコ』のテーマにつながる。この主張は、今、「国民の生命と安全を守るため(何から?テロの恐怖?アメリカと同じ轍を踏もうとしているのか?)」に無効採決と言える状況で参議院本会議で強制可決された安全保障関連法案の整備、また2020年東京オリンピックに向けて2520億円というあまりにも高額な新国立競技場の整備費用を充て、難民の受け入れをしぶる日本の政府に対しても有効なものではないだろうか。

同じ映画を何度も観たり同じ本を何度も読んだりすると毎回違った発見や理解の仕方があり驚きや発見は絶えないが、『ボウリング・フォー・コロンバイン』に関してはそれが顕著だった。マイケル・ムーアの訴えたかったことが、今、よりクリアーに分かったような気がしたのだ。もちろん、今の理解とはまた違う理解を5年後にはすることだろうし、10年後にはこれらの問題に新たな歴史さえ追加されているかもしれない(願わくば明るい歴史が追加され、これらの問題が過去のことになっていますように)。

劇中の中で、サウス・パークの原作者で脚本や声優も手がけるトレイ・パーカーが(彼自身がコロンバイン高校出身である)語っていたこともとても良かった。中学や高校で、テストの点数が悪かったりするだけで「テストで悪い点を取ったらダメだ、今ダメだと来年もお前は負け犬だ、お前の将来はお先真っ暗だ」と言われ続け、そんな日々がずーっと繰り返されていく。この狭い社会に閉じ込められて苦しんでいる若者たちは、お前はダメだダメだと周りに言われて逃げることもできず、視野は狭くなり、ただ自分は屑だという感覚だけが残る。中学や高校でたとえテストの成績が良くなくても、それがその先の人生を決定するものではないのに、大人たちはそうやって僕たちを追い込んできたんだ、と彼は言う。まだまだこれから成長する若い人々が、たとえ多少失敗をしたり、幼く浅はかな言動を行ったとして、それを根拠に、たとえ身を案じるがためだとしても、彼らの将来をそうやって呪うことは正しいことなのだろうか。

わたしは最近、落ち込むことがあるたび、今日はダメでも明日はもっと改善しているかもしれないし、来年は今では想像もつかないような楽しいことや幸福を感じられることが待っているかもしれない、と思うようにしている。たとえ今、この若い(と言ってもピチピチの20代というわけでもないのだが)年頃の時点で、物事が全くうまくいかないように見えても、60歳でとても幸せになるかもしれない。20代で成功しているように見えてその後50代、60代で孤独に苛まれるより、健やかで楽しい老後が過ごせれば、気力と体力がある今は困難に立ち向かって自分の弱点を克服したり、浅はかな知識や少ない経験によって失敗を繰り替えし、痛い目に遭いながら知識を深めたり、考え方を改めたりして自分のものの見方を楽しいものにしておく方が、わたしはいい。

わたしは本当に日々、自分はダメだ、と思いがちだし、ものすごく成功していたり、キャパと才能があって賢い選択をする友達と自分をついつい比較してクヨクヨと落ち込んでしまいがちだが、そんな自分に最近はこの言葉を言い聞かせている。「今日の自分は人生最後の自分ではない。これからも人生はまだまだ続く。今成功していなくても、いつかきっと満足できるところにたどり着けるはず」

このような言葉は巷に溢れているし、自分も何度も目にしてきた。でもこれは自分で思いついた言葉と気持ちで、今の自分にはとってもしっくりくるのだ。これを思いついてからは心が楽になったしやる気も出てきて、例えば、今知らないフィンランド語の言い回しもコツコツ学習すればきっと10年後には当たり前のものとして習得しているはずだし、今はできないことに集中するよりも、続ければきっとできるようになることの可能性に目を輝かせているべきなのだ、と思うようになった。奇跡は1日にして起こらない。今できないのは当たり前と思って潔く受け入れ、いつかはできるようになる、そのいつかの日に自分を賭けようと思うのだ。

「今の自分に期待せず、将来の自分の幸せのために頑張る」という考え方に似ているように聞こえるかもしれないが、それとは全然違う。今の自分に、最大限の期待を寄せているのだ。自分の弱さを受け入れられる強さと、欲しいものがたった今手に入らないことへの我慢強さと、努力をすればいつかは必ずたどり着ける場所があるということを信じる心と、今欲しいものと将来的に(それが近い将来であれ遠い将来であれ)得るものが全くかけ離れていることはよくあることだが、その意外性を楽しむ心構えと、目指すものや人生へ望むもの・方向性が途中で変わっていっても対応できる柔軟性と。頑張ったらその先に幸せがあるわけではなく、今の自分へ感じる心地よさを続けていく幸せが人生における次の展開をもたらすのだと思う。だからわたしは「頑張る」という言葉を使わない。この前誰かも言っていたが、「頑張る」とは今しんどい自分にさらにムチを打って、持っている力以上のものを出すことなのだ。英語では「頑張って」にあたるのは”Do your best!”だ。あなたの持っている力を最大限に出せますように、という感覚だ。眉間にしわを寄せて誰かに優しくする余裕さえなくすほどの無理な「頑張り」ではなく、今、心地よい自分と感じる自分と、心地よい程度の努力を続けていきたいと思う。

この意識は去年の今頃のわたしとは大違いのものだと思う。去年のちょうど今頃はフィンランドに住んでいるのがとても苦しい時期で、noteで数回「つらい」「毎日泣いている」と書いていて、多くの方から優しいコメントをもらったが(皆さんに本当に労って頂いて、救われました)、今は焦りを感じたらすぐに感情をシフトできるようになった。振り返れば、この訓練のためにあのような辛い時期があったといえるかもしれない。色々悩んで、自己中心的な考え方もして、友達にもたくさん愚痴を言ったりメールをしたりして聞いてもらって、ようやくここに辿り着いた。まだまだ悩みは尽きないが、重要な部分がひとつ、解決したような気がする。

最後にドキュメンタリー映画ではないが、"Detachment"という映画についても紹介したいと思う。2011年、エイドリアン・ブロディ主演の日本未公開の映画だが、『デタッチメント 優しい無関心』という邦題でDVDが発売されているようなのでどこかでレンタル可能かも。学級崩壊が進む高校を舞台にした、アメリカの教育システムや未成年の売春などを取り扱う映画で、有名俳優が脇を固めるが雰囲気はかなり暗い。「ルーシー・リューがあんなにダークな役柄を演じるのは初めて見た」という感想もある。しかし、「ここ数年のアメリカ映画で最も良かった」と言う人も多いようだ。この映画は教師の視点から現代の学校生活を描いている。見た目をつくろうことや流行にばかり興味・関心を示し、学ぶ意味を見いださない生徒たちにとって、教師は実に無力である、と本編を通して主人公たちは絶望するが、終盤の、普段は感情を出さない主人公による、なぜ学ぶかを説くシーンが良かった(動画はこちら)。

文学に出てくるUbiquitous assimilation(偏在する同化作用)、doublethink(二重思考) などの用語に絡めて「毎日毎日24時間、幸せになるためには綺麗でなくてはならない、痩せなくてはならない、オシャレでなくてはならない、そんなくだらない嘘を生み出し続けるマーケティング・ホロコーストから自分たちを守るため、読み、学び、自分たち自身の想像力を促し、自分たち自身の良心や価値観を育まなくてはならない」と国語教師である主人公は生徒たちにうったえる。昨今、「文系」「理系」という言葉が乱用され、まるでその二つが対義語かのように扱われ、序列をつけられ、人文学を軽視する言説が見受けられるようになったが、文学を読み、歴史を学び、思想を吟味し、芸術からそこに込められた政治性やオルタナティブなものの捉え方を読み取ることは、メディアや社会の風潮によって生み出される強迫や排他的で画一的な価値観からわたしたちを守るための道具を与えてくれる貴重な訓練だとわたしは思う。ギリシャ神話の教えてくれる人々の業と感情の深みや、イギリス古典の詩の持つ滑稽さや奇妙さ、中世日本文学の醸し出す五感の繊細さ、そのようなものを時にはまるで雷に打たれたかのように感じ取り、自分の一部として吸収していくことで、わたしたちは弱いものに手を差し伸べ、強いものにはきっぱりとNOと言えるような人間になっていけるのだと思う。自分の利益のみを優先し、浅はかで表面的な嘘(刹那的な楽しさ、若さ、見た目の美しさ、分かりやすい理屈、耳触りの良い言葉を並べ立てただけの虚偽、拝金主義)を信じ込むような人間ではなく。わたしたちが恐れ、立ち向かうべきものは、テロや近隣諸国、または夫婦別姓により生じると懸念される夫婦別姓でも国を追われた難民でもなく、最も弱い立場に立たされた人々のそばに寄り添わない政府と、わたしたち自身の無知、そして「頑張る」をはじめとした、わたしたちにまるで美徳のように押し付けてきた、わたしたちを苦しめる古い倫理観である。今まで無批判に受け入れてきた慣習やものの考え方の枠から抜け出すことはとても勇気が要るが、一歩足を踏み入れてしまえばとても心地の良いものであると分かると思う。これは難しいことでも、きついことでもない。より心地よい世界とより心地よい自分でいるための変化なのだ。


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【過去テキスト】

フィンランド発、TAIKKAのバッグ:

https://note.mu/minotonefinland/n/n263a9901a5c2

トランスジェンダーと人権:
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栄養たっぷりポタージュ風エスニックスープ(ヴィーガン対応可)の作り方:
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歳を取ることは結構イイこと:
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シネマレビュー: Land Ho!:
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ヘルシンキグルメ事情~アジア料理編~:
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わたしがフィンランドに来た理由:
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ベジタリアン生活inフィンランド①:
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Vappuサバイバル記・前編:
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サマーコテージでお皿を洗うという行為:
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