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手放し、自由になる


毎日やらなきゃいけないことがごちゃごちゃとある。絶えることなく押し寄せてくるタスクに流されて、自分を取り巻く様々な人々のニーズや感情に応えて、そうしているうちに日常の中に自分を失っていることが、よくある。

自分の人生に、世界に、何が大切なことなのか、分かったつもりになっているだけで、しばし立ち止まって深呼吸をして熟考することをおろそかにしているうちに、嵐に煽られて大波に飲まれた小さな舟のように、あらゆるものと一緒に流され、ごちゃごちゃの破片にしがみついて、海を彷徨っているような気持ちだ。自分を失うということは、そういうことなのだと思う。どこか島や陸にたどり着くことをひたすらに願っているけれど、足元はおぼつかず、行く宛てもないまま海を漂流している。

この数週間で一気に、複数の人間関係のトラブルに襲われてしまい、心も身体もへとへとになってしまった。けれどこれは、「今、起こってくれて本当に良かった」とまさに思えるような出来事でもあった。全てのことには意味があるなんて浅はかなことを言うつもりはないが、これからも長い人生でこのような困難が襲ってくることが度々あるだろうから、そんな時、未来の自分がこれを読んで、過去の自分はこんな風に自分の弱さや欠点を受け入れ、立ち上がったのだなと思い返せるようにここに記しておこうと思う。

わたしにとって、自分の自信となる基盤の一つに「友達」というものがあった。家族というものに心の拠り所がなかった小学生、中学生、高校生、大学生、そして20代の半生の中で、自己承認を得られるほぼ唯一の源は友達の存在だった。わたしを支えてくれる友人、良いところも悪いところも受け入れ、認めてくれる友人、楽しい気分にさせてくれる友人、賢い助言をしてくれる友人。そういう人たちに支えられ、愛され、囲まれることで、自分は自分というものに価値があると思うようになれたし、孤独や怒りや悲しみを癒してもらえたし、自分は特別な存在だと感じることができた。逆に、そんな友人に頼り切ってしまったことで、なんとか生存ができた、かなり危うい自信や自己承認がそこにあった。

友人だけではない。「そこまで仲良くないけれど遊んだり連絡取ったりする友達」もたくさんいた。わたしのことを面白いと思い、寄ってくる人は後を絶えなかった。ひたすらに褒めちぎってくれる人もたくさんいた。そういう人のほとんどに対して、残念ながらわたしは興味を持てずにいた。寄ってくる人があまりにも多すぎたし、またそういう人が「寄ってきやすい」雰囲気を自分は出していたんだと思う。今だって、好意を示してくれる人に対して、瞬時に判断して「わたしはあなたには特に興味はありません」と面と向かって言うことは難しくてとてもできやしない。それは意地悪なことではないか、と思ってしまう。でも、境界線を引くことは自分や他人を傷つけないためにとても大事なことだし、その練習をすることは今からだって遅くはないのだ。

人は他人に期待を寄せる。好きでも、嫌いでも、「もっとこうして欲しい」という要望を持ってしまう。でもわたしたちは、そんな誰かの身勝手な要望には応えなくても良いのだ。そんな義務はどこにもないし、応えなかったところで「意地悪」だとか「冷たい」だとか批判されるのはおかしな話だし、むしろそういう評価を一方的に与える人が納得いくような態度や反応を模索することは無駄なことなのだ。わたしたちに与えられた時間やエネルギーは限られていて、それを誰か自分の大切な人に使わずに、頭を悩ませてくるような人に使ってしまうのは実に勿体ないことなのだ。

親友のナタリアに「友達関係って難しいよね。こちらから縁を切って、また切って。そんなことを2019年は何度かしてきてしまったような気がする」とメッセージを送ったのは、今月のはじめに彼女自身が、友達関係で悩んでいたからというのもあった。彼女とその友人との関係はわたしにはよくわらかない。彼女からの話しか聞いていないので、何が真実かそうでないかは分からない。けれど分かっていることもある。それはナタリアが悩んでいたこと。そしてナタリアからは、これまでも何人かの友達と、ケンカしたり、一方的に嫌われたり、友情が終わってしまったりというようなことがあり、不仲になってしまった経験があることを聞いていた。まさに自分と同じだった。自分もまた、ケンカしたり、一方的に嫌われたり、一方的に嫌ったり、以前に感じていた友情が消えてしまったことを感じたり、お互いに少しずつ心の距離が離れたり、そういう経験をしてきたので、心の傷がどれほど深く、今もそれは時折痛むのだということを身をもって知っている。

ナタリアはすぐに「それは大変。会いに来て。木曜は仕事が休みだから。その日は全部空けておくね。胸に詰まってることを全部話してね」とメッセージをくれた。木曜日、田舎村からバスに乗ってナタリアに会いに行くと、「さぁ!どこで話を聞こうか。あなたのためだけにこの時間を使うことにしているからね。安心して好きなことを心ゆくまで話してね。全部聞くから」と言い、お店に入り、日の良く当たる席に座ろうと言い、ビールを飲もう、おごるから、とビールを頼んでくれた。話を重ねる時には、実際にはわたしが一方的に話すだけじゃなくて、ナタリアの相槌が入ったり、共通の友達の話をしたり、ナタリアの近況の話をしたりと、話はあっちへ行ったりこっちへ行ったりもしたけれど、だからこそわたしは思い切りのんびり、自然の流れで、自分のペースで話したいことを話せた。そしてナタリアはこう言った。

わたしたちの人生は一度きりで、あなたには自分と、ベンヤミンと、猫を幸せにすることにまずエネルギーを使うしかない。余っている時間や余力があれば、そこから他の人へ回していけば良い。好きな友達、明るく楽しく話せる友達、対等にインスピレーションを与えあえる友達など。あなたのエネルギーやパワーを吸い込んでやろうとして近づいてくる吸血鬼に割くべき時間やエネルギーなんてこれっぽちもないということをもう一度思い出して」

最後は別れ際に長くて強いハグをしてくれて、家路を向かうバスに乗っているわたしにメールをくれた。「今は困難の時期だけど、必ずすぐまた人生を楽しめるようになる時がくる。好ましくない状況が人生に暗い雲を落とさないよう、悲しみを手放して、愛を持って生きてね。わたしがフルサポートするから!」

彼女は、人間関係のいざこざで精神的に参ってしまった人や困った人が、一体何を欲しているのか、すべてわかっていたのだと思う。そして、自分が経験してきたことの中でできるだけのことをしてあげようと思ったのだと思う。これがまず、わたしが得た一つの答えだった。好きな友達といれば良い。愛してくれる友達といれば良い。自分が困っている時にこそ、最も暖かで強い手を差し伸べてくれる友達といれば良い。全員と友達でいる必要はないし、友人は少なくても良い。最悪、ひとりだって良い。




同じ日に、わたしがいつもインスピレーションを受けているヨガインストラクターのJessicaさんも、今のわたしにとってもピッタリのことをインスタグラムで話していた。

心に巣食う悲しみについて、特に友情関係の喪失の悲しみについてどう対処・理解していけるかを模索するためにずっとセラピーに通ってきた彼女の言葉。


「自分自身との関係性を見つめ直す努力をしていく中で、大切なことは自分を信じること。自分の心や意図を信じること。自分を信じるときに、他の誰かが何を言おうが、他の誰かがどう解釈しようが、そんなことはどうでも良い。例えば自分が、心の底から素直な気持ちで、最も忠実に、愛をこめて、自分にできる最上な素敵なことをしたとして、それでも誰かが誤解したりしてしまうこともある。それが起こった時、わたしたちの”自分自身との関係性”が試される。

自分の自尊心や価値を、誰かの手に委ねさせてしまったり、他人の意見や視点を気にすることで、わたしたちが自分自身をどう考えるかにすら影響を与えさせてしまうことには、危険が潜んでいるとわたしは思う。もちろん、誰かが言うことの中に真実がある場合もあるけれども、単にその人たちがその人たちの世界の中で経験してることを投影しているだけかもしれない。それがどちらかであるかを決めるのは結局はわたしたち自身で、だからこそやはり、わたしたちはまず自分を信じなくてはならない。他の人たちが自分の気分を良くさせてくれたり、価値を認めてくれたり、大切だと言ってくれたり、発言権があると思わせてくれたりすることに頼らないやり方で、自分自身で自分を信じるべき。わたしたちそれぞれがそもそも発言権を持っているのだから。

他人に自分が自分自身をどう思ってるのかを左右されるくらいなら、わたしは孤独でいること、そして自分が自分と繋がっていることを選ぶ。
わたしたちは自分自身のことを好きでいなくてはならない。自分のことをもし好きでさえいれば、もし誰かが来て”あなたって素敵ね!”と言ってきたり、または”世界で最も嫌な奴”と言ってきたりしても、どちらにせよそんなことはどうでも良いこと。自分が自分であることを知っているから。それが一番大事なことで、それがすべての原点。わたしはいつもその原点に返ってくる」

彼女はまた、このような投稿もしていた。


「今年の前半のおよそ半年を週1のセラピー・セッションに使ったのですが、それはまさにわたしが必要としていたものでした。恋人のウィルが誰かの助けを得ることを薦めてくれました。セラピーに通うことになった理由は、その当時経験していた様々な種類の悲しみについてどのように対処するか、またより良い理解をしていくためでした。

様々な種類の悲しみの一つには友情の喪失がありました。その時は、わたしの心にはとても耐えられないほどのものだと思い込んでいました。今、振り返ってみると、それらすべてが起こったことにとても感謝しています。それらを経験することはわたしにとって重要なことだったのです。

わたしの自尊心はそれまでになかったほど低いものでした。不健全な友情関係から逃れる方法を教えてくれる人は誰もいません。もうとっくに断ち切らなければならなかった友情関係や恋愛関係があったのに、誰かを傷つけるのが怖くてそれをできずにいました。しかし結局は自分自身を、もはや自分が誰だか分からなくなってしまうほどに傷つけることになってしまいました。他の人のためにたくさんのスペースを空けてしまったせいで、自分自身へのスペースがなくなってしまったのです。自分自身を見失っていると感じました。自分が不安定だと感じました。

この過程の中で、自分の人生やスペースにいて欲しいと感じている人たちは皆、未来へ向かって歩んでいることに気づきました。自分をもっと信じて、自尊心を高めるよう、背中を押してもらったのです。このことによって、わたしの存在を認めてくれるような人々に対して、自分もより良い人間になれるのだと気づきました。

わたしが得た一番の教訓は、喪失は必ずしも悪いものではないということだと思います。それは時に必要なことでさえあります。わたしたちは一旦離れながら成長して、また仲が戻ったり、または別々に成長して、人生の全然違う方向へと辿り着いたりするのだと思います。しかし、誰かが自分の人生から去ることで、むしろ自分自身がもっと自分と強くつながり、もっと確かで、もっと自分になれることができるなんて、なんて美しいことなのでしょう。真実を告げるこの詩をどうかシェアさせてください。『今までに失ったすべてのものたちよ、わたしを自由にしてくれてありがとう』」


ナタリアと話したり、Jessicaさんの手記を読んだりすることで、痛みや喪失を経験した女性たちの言葉に少しずつ自分の魂のけがを治す薬をもらったような気分になったし、ようやく自分の中で新しい道が拓けたような気がした。道というとなんだか大げさに感じる。道というよりは、穴。息ができなかった容れ物の中でのたうち回ったり泣いたりしていたところに、ようやく小さな穴が開いて、新鮮な空気が流れ込んだような感覚。モヤモヤと悩んでいた頃にはさっぱり思いつかなかったような潔い気持ちが生まれて、瞬く間に心が強くなった。それは紛れもなく、自分で見つけた答えでもあり、その気持ちはまさに自分のもので、だからこそ自分が自分に再会したかのような気持ちになった。

人は、幸せになるために覚悟をしなければならないこともあるし、その覚悟の中には、あくまで自分にとっての視点で、不健全な関係性というものがあるとして、それを切り離さなくてはならない場合に、それを決意し、実行しなくてはならないという覚悟もあるということ。不健全というのは、有害という言葉でも表現できるけれど、「心地よい関係性」ではないもので、それは誰かが一方的に悪い人だとか害を与えてくるというようなことではなくて、理由は解明できないけれどなんとなくウマが合わなくなってしまったり、ケミストリーがうまいこと起きなかったり、一方の、または両方のテンションがなぜか下がってしまったり、片方がもう片方のエネルギーを搾取するような形の関係性になってしまったり、悪口や愚痴などでしか繋がることができないような仲になってしまったり、嫉妬で相手の幸せを素直に喜べなくなってしまったりなどの関係性で、最初から問題が明らかなものもあれば、時間が経つにつれて性質が変わってしまったり、くっきりと浮き上がったりするものもある。

大親友だった人が、そうでなくなってしまったり、意気投合した人が、実はそこまで気が合う人ではないということに気づいたり。そんな時、わたしたちの心は失恋と同じくらい、またはそれ以上に傷ついてしまう。友情こそ永遠だと思っていたのに。あんなに楽しかったのに。あんなに心を許せたのに。なぜ変わってしまったのだろう。なぜ心通わすことができなくなってしまったのだろう。こんなことで許せなくなってしまうなんてわたしはなんて心が狭いのだろう。と、自分を責めたり、相手を責めたり。

でも、時を戻すことができないように、時間の経過と共に変質してしまった関係性を元に戻すことはできない。時代は変わるように、人間も変わるし、人間と人間の間に生まれる空気感や奇跡や魔法のようなものも変わってしまうのだ。もし、その空気感が居心地の良いものでなくなったり、不健全なものになったりして、手放したいと思うものになってしまったなら、それは手放すべきで、それに対して怒ったり、恨んだり、憎んだり、申し訳ないと思ったり、嘆いたり、謝ったり、自己嫌悪に陥ったりする必要はない。自分を軽薄だとなじったり、人でなしだと落胆しなくても良い。ひとつの美しかった時代が終わっただけのことで、これからまた違う時代が始まろうとしているだけなのだから。

先週助けてくれた親友のナタリアとは、いつかその友情関係が少しずつ変化していって、友達ではなくなってしまう日がくるかもしれない。今そばにいてくれる優しい夫とも心が離れてしまう日がくるかもしれない。でも、そんな時は昔の奇跡や魔法にすがらずに、頭を高く空に上げ、背筋を伸ばして歩き続けていきたいと思う。今あるこの友情や関係性が美しく、強く、わたしを何百倍も輝かせ、愛に包み込み、幸福にしてくれたという事実は紛れもないものなのだから。それを失うことは、それが嘘だったことではない。それは確かにそこにあった。過去の幸福や喜びに思いを馳せ、懐かしさに身を浸すことは人間として生きる醍醐味だけど、精神的にやられそうになったら、自分たちが今一番優先しなければならないことを思い出そう。自分を幸せにすること。自分に素直に生きること。自分を大切にしてくれる人の言葉に耳を傾けること。それができれば過去も未来もどうにかなる。どうにかなるんだ。

自分の人生の中で、「友達」や「友人」によって自尊心を保ってきた期間の、なんと長かったことか。わたしを良い気分にさせ、特別な気持ちにさせてくれて、ありがとう。でも、わたしはその力を使わなくても良いほどに、自分を強く鍛えることができました。誰かに褒められなくても、誰かに認められなくても、気持ちが弱ったりしないほどに自分を自分で信じられるようになりました。誤解をおそれて自分の気持ちを伝えられなかったり、心の距離ができてしまうのを気にしたりするくらいなら、わたしは孤独を感じたとしても自分に正直でありたいです。そして今のわたしは、自分の持つエネルギーを然るべきところへ使いたいと感じています。今まで本当にありがとう。そして、お互いに自由になろう。


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