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一過性の文通

恋愛についてはよくわからない。だからこれは恋愛についての文章ではないし、恋愛感情についての文章でもない。

親愛について、そういう呼び方が妥当かもしれない、名前をつけるのはとても苦手だ。

その時、私は海外にいて、彼女は日本にいた。日本にいて、何かをしている様子はなかった。働いていたり、遊んでいたり、学校へ通っていたり。そのいずれもしていないようだった。
だから、何をしていたのかはよくわからない。わかっていたのは、何らかの病気の療養をしていたこと、それと物語を書いていたこと、海の近くに住んでいて、たまに海辺を歌いながら散歩していたこと、それだけだ。

彼女を書く文章をインターネットで見つけて、それに感想を送ったことが最初だったと記憶している。
そこからお互いの近況などについて、手紙でやり取りするようになった。
その時期、私が強く言葉を求めていて、その人は私の求める言葉を持っていたように感じた。

その人の手紙は「こんにちは、」からいつもその手紙ははじまって、「また手紙を書きます」でいつも結ばれていた。書いているのは、とりとめもないことで、春にまいた種が芽吹きそう、だとか、風が涼しくなったとか、そんなようなことを毎回書いていた。そんなにやり取りは多くなくて、年に2回くらい。

私は、「あの文章がよかった」とか「論文を書くのが大変だ」とか「異国での振る舞いがわからない」とかそんなことを書いていた。

とにかく、彼女は人に寄り添う人だった。元来の性質もあるだろうけれど、病を患っていることや、そのことでの家族や友人との付き合い方に気をまわしている様子だったので、なおさらだったと思う。寄り添いすぎて、疲れてしまわないだろうかと思うくらいに、優しく、穏やかで、でもどこか寂しさを感じさせる人だった。

それなのに(それだから)だろうか、彼女の目を通して書かれる世界は美しく、崩れそうな生活を祈りで支えているようなものだった。あまりにも切実すぎて、同じ世界に生きていることが信じられないと思うことすらあった。

何度か、物語を送ってきてくれた。絵本のようなお話。きっと彼女が夏にしたかったであろうたくさんのこと。

海に行きたいな、森に小鳥を見に行きたいな、家で本を読んで、おやつにアイスを食べてふたりで半分こ。タオルケットでお昼寝をして、夜は縁日。遠くでは花火の音。夜空を眺めて新しい星座を作って、流星群の夜はこっそり家を抜け出すの。

食事の制限がかかったり、外出の制限がかかる彼女の普段の生活を聞いていたから、それを読んでやっぱり寂しかった。それに対して私ができることは、文章を返すことだけ。現実には届かない。

夏、涼しい風が吹きはじめるといつも彼女のことを思い出す。海を散歩して、好きな歌を口ずさんでいるだろうか。少し自由に食事をできるようになっただろうか。祈りは届いたのだろうか。

人とつながるときは、寂しさでなく優しさであってほしいと、いつも彼女は言っていた。寂しさでつながれば、また寂しさが芽生えてしまうのだからと。

彼女のことを思い出しながら花火に火を灯す。そうしてまた、今年も夏が終わる。孤独を手放さず、孤独とともにあろうとするあなたと私へ。

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