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あけてはいけない

会社のドアは指紋認証式だ。
機密事項を扱っているから、ということらしい。

あらかじめ登録した指をパネルに置いて、指紋を認証させるとドアのロックが外れる。かなり厳重なシステムになっている。

それが開かない。ことごとく僕はその認証に失敗する。これまで最高、七回連続で失敗したことがある。

「じつはこのドアは波紋、もしくは波動による認証で開くんだよ」

会社にも少しは慣れてきたが相変わらずドアの認証率は低く、社内に入るのに毎回手こずっていたら、同じ部署の先輩であるヤマネさんが教えてくれた。

「だからこうして、ハァーっと息を吹きかけてさ」

ヤマネさんは親切に眼の前で実演してくれる。いつもしている黒い手袋を外し、伸ばした人差し指をもう一方の手でよく揉み込み、指先にハァーっと大げさな仕草で息を吹きかけた。それから認証ディスプレイにスッとその指を押し当てる。

ピッという電子音が鳴って、ドアが開いた。

「冬は乾燥するから波紋が伝わりにくいんだね。だからこうした方がいい。まあ自分の場合は年のせいもあるかもしれないけど……」

いや、波紋(あるいは波動?)認証って、この人は一体何を言っているのか。それ単に指先湿らせて、指紋を認証しやすくさせてるだけじゃん。

そのときの僕にはそうとしか考えられず、思わず怪訝な目を向けたのだが、そんな視線を気にもせず「波紋とか波動、呪術っていうのは、湿り気とか人の吐息によっても増幅するのだよ」なんて、ヤマネ師はもっともらしい顔で続けた。

波紋あるいは波動によるドア認証システム。

最近では、確かにそんな気もしてきた。というか実際にそうなのだと思い込み始めている自分がいる。ヤマネ師に教えられた通り、指先に息を吹きかけるようになってから認証率は格段に上がった。

いまは二回に一回くらいの確率でドアが開く。

「段々と力がついてきたんじゃないの」
最近の認証率を僕が報告すると、ヤマネ師はニヤニヤ笑いながら言った。それから中ジョッキを持ち上げて、グビリと一口飲む。

大体、週に一回くらいのペースでヤマネ師と飲んでいる。
飲むのは会社の近くの適当な居酒屋ばかり。ヤマネ師はいつもビールしか飲まないし、ツマミにもこだわらない。僕は気安い店で気安く過ごすのが好きで、というか学生時代からいまも変わらず、そんな雰囲気の店でしか落ち着いて酒が飲めない。
あまり混み合い過ぎず、店の中が特別うるさかったり狭苦しかったりしなければ、あとは大概どうでもよい。店選びの方針は、二人とも一致していた。

「仕事にも慣れてきたかな」
「いや全然。正直よく分かりませんね」

ヤマネ師とは同じ部署に所属しているのだが、業務で絡むことは今の所ほぼない。ヤマネ師は元々ずっと個人営業、フリーで仕事をしていた。それが僕が入社する数ヶ月程前、社長から直々に請われて雇われたらしい。社長がいまの会社を起こして独立する前にいた元の会社で、社長とヤマネ師は先輩後輩として一緒に働いていたのだという。

「まあ、そんなすぐにはね。でも君は若いのだから、これから、これから」
「そうかなあ」

実際の所、もうそんなに自分は若くない。それでも恐らくは五十過ぎくらいであるヤマネ師からすれば若年であることに違いはない。もちろん仕事の上でもヤマネ師は大先輩、大ベテランであるが、年の離れた友人のように気さくに付き合ってくれる。
そのきっかけとなったのは、ある一冊の本の話題だったことを思い出す。

「まだ若いってことは、これから色んな魔導書を沢山読めるってことだよ。本当にうらやましい」

ヤマネ師のいう魔道書なんて、ほとんど自分は読んだことはない。
ただ一冊、不意に頭に浮かんできた本があった。会社の給湯室でコーヒーを入れていたヤマネ師との雑談のなか、そのタイトルを口にした。途端にヤマネ師は興奮して、ドリップ中のコーヒーがすっかり冷めてしまうまで、その魔導書について一方的に語った。
「どうして君は、そんな本を知っているんだい!?」それからも何度となく聞かれたが、どうしてなのか自分でもよく分からない。

「ところで自分はまたバルザックを読み直してるんだけどね」
「バルザック? また話が飛ぶなあ」

僕が知っている(と言っていいのかも分からないが)魔導書は、あくまで一冊だけだ。しかしヤマネ師に言わせれば、この世において書かれた書物、つまり文学書もSFも実用書もエロ漫画も何もかも、じつはすべて「呪い」について書かれているらしい。
そんなカテゴライズでいいのなら、これまでも自分は「魔導書」も沢山読んできたわけだし、それなりに知識もあるということになる。「それぞれのリンクみたいなものをね、上手く読み解けるようになれば。……まあ追々分かっていくだろうけど」なんてもっともらしく嘯く、どこか無責任な感じも漂わせるヤマネ師を、僕はいつの間にか尊敬(この表現が正確なのか分からないが)するようになっていた。

「こないだ、また全集を買ってね」
「え、また買ったの? 元から持ってたんじゃなかったっけ」
「それとは版元が違うんだよ」
「ほんと全集好きだなあ」
「やっぱり全集だよ。全集は本当に素晴らしい。なんてったって全集だよ!」
「家が重さで傾くよ、そんなに全集ばっかり買ってたら」
「いや、それも全集のためなら……おっと、自分がしたいのは全集ではなくバルザックの」

それからヤマネ師は、かのフランスの大文豪バルザックが骨相学に凝っていたというエピソードを熱く語り始め、そのバルザック自身の頭蓋骨を横浜中華街にある怪しげな骨董屋で手に入れたのだと無邪気に自慢するうちにまたすっかり興奮した様子だ。

「頭蓋骨の形がこうなら声帯の感じもこうなって、そうすると声の高さや質感も定まってくるでしょう。顔が似ていれば声も似てる。声が似ていると、不思議なことに性格も似通っているものだよ。だから元々の骨相にそれぞれの生い立ち、環境、歩んできた人生、呪い、波紋、波動、憑き物……そういうものを加味すれば、ある程度のタイプ分けができる。これは自分の経験則から言っても」

ポテトサラダの食べかすを口の端に付け、目を思いっきり見開いて身振り手振りもまじえて夢中で話し続けるヤマネ師の話は、まだまだ止まらなさそうだ。

ずいぶんと変わった人のいる会社に就職してしまったなと改めて思いながら、僕はヤマネ師のビールと自分のハイボール、それからレバーフライを追加注文した。

「余計なデータとか設定は全部消してあるから」
社内インフラの担当者が、たしか初日に言っていた。
だから一度クリーンインストールしたものだと思っていたが、どうもそうではないらしい。そこかしこに前任者の痕跡が見つかった。

まず最初に、自分に与えられた業務に必要な設定が、すでに適用されていることに気がついた。その項目は、決して一般的なものではなく、どう考えてもこの業務用に調整されていた。

それとなく周囲の様子から伺い知れたのだが、入社時に用意されていたこのマシンは、自分が入る少し前に辞めた前任者のものらしかった。

「あ〜ん、もう、いやになっちゃう! ……ギエエエエエエエエッ!」

斜め後ろの席から聞こえる、鼻にかかった甘ったるい声、そこからいきなりヤケクソのような怪鳥音。
それに続けて、凄まじい勢いのタイプ音。
ダンッダンッダンッ、バチッ、ダンッ、バチッ……!

はっきり言えば耳障りなレベルでキータッチが乱暴だ。まさにキーを叩き込んでいる。もちろん独り言、そして怪鳥音もうるさい。きっと彼女も多大なストレスを抱えているのだろう。それがこちらにも伝播してくる。そういうものは、この職場においてひどく伝わりやすい。

彼女はシマおばさん。
僕が入れられたチームのリーダー的な役割を担っている。年齢は五十代半ばくらいだろう。その割には若くも見え、なにより声としゃべり方が若い娘のように甘ったるい。基本的には親切で人当たりもよいのだろうが、何より抱えている業務量が膨大で、とにかく余裕がないらしい。とくに最近は苛立ちの濾出が大変に目立つ。

「ア゛ヂョッド○☓□☓□……?」

今度は壊れた機械音のような声が響く。これはすぐ後ろの席のカンソンさんという、六十近くの人だ。彼は元技術者で、この業務において重要なマシンやwebに関する知識を多く持ち合わせており、作業効率化のためのツールも開発している。
有能な人材には違いないが、きっと自分の頭の中もプログラミング言語に統一しているのだろう。彼の言葉は過度に論理的で、説明など分かりやすいときもあるのだが、こちらの脳が疲弊してくると、なにを言っているのか全く分からない。さらに物言いがひどく無感情というか、相手の神経を大いに逆なでする場合がある。しかしきっと本人に悪気はない。こういう人は世の中にわりといるものだ。

「☓○□☓□……?」

どうやらカンソン老が自分を呼んでいるらしいと機械音を聞き分けて判断した僕は、事務椅子をクルリと回転させて彼の側に寄っていく。するとカンソン老が話を始め、ギイギイという機械音がすぐ耳元でこれまた耳障りに軋む。なんとか解読した言葉の内容は業務上の注意事項であり、わざわざ丁寧に逐一教えてくれているカンソンさんは親切な人ではあるのだろう。
ちなみに「ヂダビジ(ちなみに)……」と言うのが彼の口癖で、これが出ると直接は関係ない豆知識的な事柄がしばらく展開され、さらに「ヂダビジ……」「ヂダビジ……」と無限に続いていく場合があるので、そこは注意しなければならない。
ちなみにカンソン老も自分も、膨大かつ煩雑な作業を抱えている。油断すると作業がいつまでも終わらず、我々の日程はどんどん圧迫されていく。

「ヂダビジ……」
そして案の定、今回もまた「ちなみに」の無限地獄が始まりそうになった。

そのタイミングで、カンソン老の横から「んふっ」という吐息混じりに短く笑う声が聞こえてきた。シマおばさんが笑っているのだ。
ちなみにカンソン老はその瞬間ピクリとわずかに眉を動かした。

じつはシマおばさんとカンソン老の仲は、あまりよくない。

というより相性的には最悪か、限りなくそれに近いのではないかと思われる。自分が入ることにより、それでも少しはマシになったという話も聞いたが、やはり基本的には相性が悪いのだ。

表面的な人当たりの良さを駆使して根回しなどの権謀術数的なものに長けているであろうシマおばさん。そして愚直なマシン技術者として自らをも機械化しているらしいカンソン老。
この二人の間に挟まれた自分は、大変にややこしい環境にいる。

業界未経験で入社したのだから、とにかく分からない事だらけだ。くわえて、このチームの業務内容も人間関係も、ひたすらややこしい。

そもそもが急ごしらえのチームに他ならない。

現在我々が取り組んでいる業務は、元々は前任者がほぼ一人で担当していたという。前任者とは、僕の使っているマシンを前に使っていた人である。

現在三人がかりで取り組んでいても一向に片付かない膨大な量の仕事を、彼がどうやってこなしていたのか、入ったばかりの自分にはさっぱり分からない。とにかく膨大な作業量なのだ。

ただ一つ分かっているのは数ヶ月前、それまで積み重なってきた彼の過失が一気に露呈したことである。

それが原因となり、前任者はこの職場を追われたらしい。

「本当にいい加減で、それから気持ち悪い人だったからね! だから以前のモデルを転用するときは注意してね! それ多分、すごく間違ってるから。下手すると、わたしたちの責任問題になっちゃうからね!」
「ヴァッ、☓□□、○☓☓!」

前任者の悪口を言うときにだけ、この二人の仲は良くなるように思う。まったくの不当、ひどく厄介な尻拭いをさせられているという意識が、二人の間に共通してあるのだろう。

職場の環境自体はわりとカジュアルで現代風で、公的な場に出ていく機会でもなければ服装は自由だ。けれど、この二人には業界の伝統衣装である黒いローブにフードまですっぽり被った姿が、きっとよく似合うだろうと思う。

「あそこのチームは本当に面倒くさいだろうなあ。いきなり厄介な所に入れられたね。機会を見て、うまく逃げ出すのがいいよ」

なんとか作業を切り上げ、ヤマネ師と待ち合わせて居酒屋に入った。
胸のあたりに滞留している呪いのような愚痴を一気に吐き出すと、ヤマネ師は軽く笑いながら言った。一応は同情してくれているらしい。

自分たちのいる会社は個人事業主の集まりのような状態になっていて、部署の人間はみな各々の仕事をしている。だから誰が何の仕事をしているのか、長く会社にいる人同士でも知らなかったりするらしい。ちなみにチームとして動いているのは現在は自分の所だけらしい。たとえばヤマネ師は僕の席から裏鬼門の方角に約十メートル離れた窓際の席で、いつも悠々と自分の作業を進めている。

もちろんヤマネ師はベテランであり、圧倒的な経験と技術がものを言っているのだろう。しかしそれらを鑑みても、ずいぶんと気楽に見えることに変わりはない。

「いや実際に気楽だよ。一人でやっているわけだから、結局は全部が自分に返ってくる。それだけだ。慣れてしまえば、どうってことない」

そう言ってヤマネ師は煙草をプカリと吹かす。なんだか癪になってきたので、ヤマネ師の煙草を勝手に一本取ってくわえ、ヤマネ師のライターで勝手に火を付けた。

ポワリ、と白い煙が眼の前に漂う。
久しぶりの一服をしながら首をゆっくり回すと、関節がボキボキと大きな音で鳴った。

「とにかく、お疲れのようだね」
「つかれる。あの空間にいるだけで本当に」
「だから機会を見て」
「すぐにでもそうしたいけど」
「まあ、しばらくは耐えるしかないか」
「はい。……それで、ちょっと聞きたいんですけど」
「お、なにかな。こないだ買った有島武郎の全集だったら……」
「いや、そんな話じゃなくて」
「なんだ、違うの」
「違いますね。とりあえず前に『カインの末裔』は読んだけど」
「あ、あれねえ! でもさ、自分としてはやっぱり」

案の定話がそれて、ひとしきり有島武郎について話した後、改めて僕は尋ねた。

「あの業務の前任者って、どんな人だったんですか?」
「……つまり君のマシンを前に使っていた人だね」
「そうみたいですね」
「ふーん、なるほど。問題の本質は、案外そういう所に……」
「え、なに問題の本質って」
「いや、まあ、なんていうのかなあ、あの人は」
「……」
「でっかいね、豚ナメクジみたいな人だったよ」
「豚、ナメクジ……?」
「うん。豚ナメクジ。ちょっと、ねちょっとした感じでね。それで、でっかい。すごく太ってる」
「うわ、なんか」
「そうだねえ。わりと嫌われてたみたいだねえ。とくに女の人からは。ちょっと性格にも難のある人だったのかもな。私あんまり興味なくて、よくは知らないけど」
「なんか、すごい嫌だ。明日もあのマシン使って、あの二人と一緒に働かなきゃいけないんですよ、おれは」
「いやー、ほんと大変だねえ。同情します」

ヤマネ師は無責任な口調で言って、うまそうにビールを飲んだ。

その翌朝から、僕は本当に大変なことになってしまった。
ヤマネ師とあんな会話をしたせいで、まだ表面には出てきていなかった「呪い」を、すっかり呼び覚ましてしまったのかもしれない。

その日、本体ドライブの奥深くに、怪しいフォルダを見つけた。

「名称未設定フォルダ」と、デフォルトの名前がそのまま付いていた。作成された日付は、去年の夏頃。これはちょうど、前任者が会社を辞めた頃だと思う。

まず間違いなく、これは前任者が残していった痕跡の一つであろう。
そして夕方頃、僕は気まぐれを起こし、ついそのフォルダをダブルクリックした。

開けてはいけないフォルダを、そのとき僕は開けてしまった。

複数のPDFファイルを開いて同時に編集していると、よくマシンが落ちるようになった。この間までは、ここまで頻繁ではなかった。
PDFファイルだけではない。
業務でよく使う特殊なソフトも、明らかに挙動がおかしい。
まだソフトの扱いに不慣れなせいもあるが、どう考えたって不慣れというだけでは済まされない現象も起きる。

マシンに詳しいカンソン老に教えを請い、とりあえず問題は解決するのだが、根本的な原因は判明しない。

インフラ担当者がやって来て、いくつかのソフトをインストールし直した。
「やっぱり、あれかなあ。あいつの呪い……」ボソッと呟いてから、それを聞きもらさなかった僕の表情を見て「……なんてな!」と誤魔化すように明るく言って、そそくさと去っていった。

それら一連のトラブルの結果として数日分の作業が、ほぼ帳消しとなった。
続けて怒涛のように担当しているモデルの締め切り日が迫って来て、納品先の企業に常駐する担当者からの、あまりに横柄でひどく厄介な注文のメールが自分宛てにもどんどん届くようになった。

あまりにもそうしたメールが連続するものだから、メール受信箱にそいつの名前が上がってくる度に吐き気を催すようになった。そいつの名前の字面が、もう見るからに禍々しい。

カンソン老もシマおばさんもさらに余裕を失い、一段とカリカリとしてくる。この二人は元から毎日遅くまで残業を重ねていたが、その隊列に自分も加わることになってしまった。そして同じように心が毛羽立っていく。カリカリと地獄の蓋を掻きむしる音が幻聴される。

二人それぞれの面倒臭いパーソナリティ、そのコラボレーションにすっかり辟易してしまい、ガタついているチームの空気を少しでもよくしようなどという自分の甲斐甲斐しさは入社して二ヶ月で露と消えた。

ただひたすら早く帰りたい。
しかし帰れない。

様々な要因が重なり、業務における作業量は昔のバラエティ番組に出てくる馬鹿げた風船のようにひたすら膨らみ続ける。破裂するのなら、さっさと破裂して、この場を壊してくれたらいい。いっそ皆それで幸せになれる。笑えるんじゃないのか。
そんなことを口のなかで呟きながら作業を進める。

意味のない記号の羅列にしか見えない複雑怪奇なHTMLに、難解な基準書に従って呪詛が込められたタグを埋め込んでいく。それをネット上に放出する。それが我々のチームのタスクなのだ。じつに禍々しい。

一度ペースを乱してしまうと、そこから一気に崩れ落ちるだろう。
そんな予感は、当初からあったのだ。

もう少し、うまくやれる余地はあった。
しかし見事に失敗した。
その原因は、あのフォルダーを開けてしまったからに違いないと、現在進行系でゲシュタルトが崩れている脳で考えていた。

こうした状況は、年が明けても変わらなかった。

年越しに締め切りを引きずってもいたので、年末年始も落ち着かなかった。ただじっと実家のコタツで固まったり、一人で東京の部屋に戻ってきても、まんじりともせず孤独に固まっていた。

そして、そのまま仕事始めを迎えた。

ゲシュタルトは相変わらず崩壊の一途。もはや廃墟。
つまらないミスを連発したり、そもそも仕事の内容の把握が不十分な所もある。なにせ入社して、まだ二ヶ月しか経っていない。研修なんてものは、あくまで形だけのものだった。だから見切り発車もいい所。その見切り時にやっていたミスには、後から気がつく。そして順次ロールバック。過失は結局自分で拭うしかない。ただひたすらに時間を浪費して、締切が迫ってくる。

カンソン老とシマおばさんが帰った後も、自分はひたすら作業を続けた。

疲弊して帰宅しても、頭だけが妙に冴えて夜も眠れない。

だんだんと精神がおかしくなっていく。
元々自分はゲシュタルトを見失いやすい。見失ったまま生きてきたともいえる。

しかし脳がしびれて、創造性とか思いやりとか、人間として大切な成分が次々と死んでいく感覚。これは未体験に近いものだ。
その一方で、何か別のものが研ぎ澄まされいくような気もしてくるのが不思議である。

これもまた一つの通過儀礼であったのかもしれない。

……あのフォルダ。

そこで僕はようやく思い出す。

年末、陰の気が一年で一番高まるという冬至の頃に、つい開いてしまった、あのフォルダ。

あれこそが前任者の残した呪いだったのである。

フォルダの中身は空っぽだった。

しかし開いた途端、何かの実行ファイルが動き出したに違いない。

それは自分の次にこのマシンを使うものへ向けられた、前任者の呪いのプログラムである。

そうか、そのせいだったのか。

それから僕は家から大量の塩を持ってきて、マシンのすぐ横に盛るようにして置いた。

白い盛り塩が、半日も経たないうちに茶色く濁ってくる。

「ケケケッ!」
「ヂダビディー」

シマおばあさんはときおり邪悪な笑い声を上げ、カンソン老は老人性の咳をしながらも壊れた機械のように調律の乱れた薀蓄ボイスを垂れ流し、論理的な思考でシマおばさんの権謀に難癖を付けて二人仲良く揉める。

そして作業はさらに複雑なものに進化する。

その度に僕は塩を盛った。いまやデスクの上には濁った塩の柱が何本も立ち並んでいる。

ヌルリ……。

また遅くまで居残っているとキーボードが妙にすべる、というかヌメる。

ヌチャ……。

ファイル名を変換するために押したF2キーから指を離すと、粘液のようなものが糸を引いた。

なんだこれは。

気がつくと社内には僕しかいない。

ニュルンッ……。

開いていたソフトの画面に、奇妙なイラストが勝手にポップアップで表示された。

豚とナメクジをかけ合わせたようなキャラクター。
むかし父親の古いPCで見たWordのヘルプキャラクター(たしかイルカだった記憶がある)のような、いかにも古臭い絵柄。

ああ、とうとう出てきたのだな。
そのとき僕は思った。

瞬間的にそいつを右クリックして非表示にさせたり、プログラム自体を終了させてやろうとした。しかしうまく出来なかった。

ならば物理的に切ってやると、マシンのコンセントを乱暴に引き抜こうとしたところで、その豚ナメクジが慌てた様子でしゃべり出した。

しゃべると言っても、キャラの横に吹き出しが表示されるということだが。

「待ってくれ。頼むから、私の話を聞いてくれないか」

前任者の呪いの顕現であるキャラクターは、ヌメヌメと身体をくねらせてしゃべった。

「五分だけでもいいから」

クレイジーケンバンドの歌のようなことを言う。

本当に五分だけならば聞いてやってもいい気がする。いい加減に作業も嫌になった。もうさっさと帰りたい。何より、今日はこれ以上働きたくない。

「私の、私のこの恨みを、君が晴らしてはくれないだろうか」

いよいよ本当に面倒くさいことになったと思った。

もう一盛り塩を盛ってやろうとロッカーから塩の袋を出すと、豚ナメクジがさらに慌て出し、ブヒブヒと鼻を鳴らした。

「あ、やめて。もう塩はやめて。身体溶けるかもしれないし、塩分控えろって医者にも言われてたし」

盛り塩は、一応は効いてはいたらしい。

「五分だけ」と豚ナメクジは最初に言ったが、やはり三十分くらいは彼の話を聞かされた。でもそれで少しは腑に落ちることもあった。

前任者の彼(豚ナメクジ)が全く悪くないとは言わないが、たしかに同情すべき点も多くありそうだ。

そもそも、この業務は根本がおかしいんじゃないだろうか。そういえばヤマネ師もそんなことを言っていたし、最近自分もその考えに行き着いていた。

その根本のおかしさに、彼は彼なりに抗おうとして、そして破れてしまったのかもしれない。
そういうふうにも受け取れる事情であった。

とりあえずシマおばさん始めとするこの業務に携わる人々が、ただ一方的に彼が悪いということにして悪しざまに罵り、溜飲を下げているこの状況は、まず間違いなく何かがおかしい。
なにか、もっと根本的な原因があるように思える。

「そうか、分かってくれるか。そうなんだよ。実は……」
豚ナメクジが、スクリーン上でヌメリ泣きをした。やっぱり気持ちが悪いやつだ。女の人には嫌われるだろう。

とにもかくにも、自分が現在巻き込まれてしまった呪いの構造を、僕はすこしは把握した。

しかし、だからと言って「恨みを晴らす」なんて依頼を引き受けるつもりは毛頭ない。
自分は未経験で何とかこの業界に潜り込んだばかり、いまは汲々としているしかない状況だ。

とりあえず疲れて仕方なかったので、マシンを強制シャットダウンさせて豚ナメクジの話を強制的に打ち切って、僕はキーボードと手を殺菌ウェットティッシュでよく拭ってから会社を出た。

盛り塩を足すのは、とりあえず止めておいてやった。せめてもの情けである。

バタン。

自分の背後で、会社の重い扉が閉じた。
続けてガチャッと音がして自動施錠される。
明日もここに来て、波紋を認証させなければならないのだ。うんざりする。まあ最近では一発で開くことも多くなったのだが。

「今日もずいぶんと遅くまでやってたんだね」

会社から駅までの道にある、古い陸橋の下で声をかけられた。
暗がりに溶け込むように立っているのは、黒尽くめで背が高い、初老の男……ヤマネ師だった。

「あれ、もしかして待っててくれたんですか?」
「いや、そこら辺の古本屋と喫茶店にいてね。そうやって時間潰すの、私は苦にならないし」

こちらに近づいてくるヤマネ師は、小脇に紙袋を抱えている。また何か魔道書の類を手に入れたのだろう。

「すごく大変そうだけど、私が直接助けてやることは、どうやらできなそうだ。別に私もこの会社で権力があるわけじゃなくてね」
「いや話を聞いてくれるだけでも助かりますよ。正直、最近はさすがにもう飛んじゃおうかなんて」
「飛ぶって、いきなり辞めちゃうってこと?」
「まあ、そんなことも思わなくは」
「えー、もうちょっと頑張ろうよ。いま君が辞めちゃったら、私も話す相手がいなくなっちゃう」

それから久しぶりにヤマネ師と居酒屋に入った。
急に地獄のような状況になってしまったから、ヤマネ師とゆっくり話すのも久しぶりだった。

「君は、なにか目的があってこの業界に入ってきたんでしょ?」
いつものようにビールを飲んで、ヤマネ師は言う。

「何事も、ずっとそのままということはありえないよ。この状況だって、そう長くは続かないはずだよ。だからもうすこし頑張ってみたらいいんじゃないかな。そうすれば豚ナメクジだって」
「いや、わかってるんですよ。自分でも。いま辞めたって意味がないわけで。おれも別にまだ全然やれるし」
ハイボールをグビリと飲んで、僕は一端の勤め人めいた表情を意識しつつヤマネ師の煙草をまた勝手に吸って煙を吐き出す。
プカリと濃い煙が、自分とヤマネ師の間に漂う。

「こんな仕事に就いたからといって、自分の魂まで率先して暗黒に浸すことはないんだよ。我々はすべからく闇に堕ちていく。誰もがそうなる。でも、だからこそ落下を焦る必要も、ことさら深刻になる必要もない。仕事はあくまで仕事だよ。君は君の使いたいように、自分の命を使えばいい。まだ若いんだから、魔道書だってまだまだ沢山読めるわけだし」

そう言ってヤマネ師はテーブルの端に置いた紙袋をポンと叩いた。また魔導書か、本当この人そればっかだなとすこし笑えてくる。それにしてもまた随分と分厚い本を買ったものだ。

「あ、この魔道書はねえ、なんと……」

そして今日も壊れた操り人形のようにギクシャクとした足取りで、ようやく自分の家に帰り着く。

一日分の汚れと穢れ、憑き物と呪いを洗い流すため、バスルームに入ってシャワーを浴びる。

シャワーの水流が僕の天頂に降り注ぐのと同時に、彼女が今日も語りかけてくる。

「今日も疲れた?」
「……すごい疲れた」
「そうみたいだね。疲れてるし、また憑かれてる」
「そうなんだよ。また見事に憑かれちゃったみたいだ」

彼女の言葉に応えながら、僕はバスタブにかぶせてある蓋を開けた。

そこにはマネキン人形のような彼女がホルマリン漬けになっている。目は閉じられたまま、ひどく億劫らしいが、なんとか口と声帯だけは動かして僕に語りかけてくる。

「仕事もう辞めたい?」
「明日にでも辞めたい」
「そうだよね。会社に通うのなんて、全然向いてないもんね」
「本当に、すごく向いてない」

それから僕はひとしきり愚痴をこぼす。
ようやくその愚痴が一段落したところで、すこしは楽しい話もしなければと思い直す。なんといっても話せる時間が限られている。

出勤前、余裕があれば通っている喫茶店がある。そこで毎回出くわす道祖神の話を面白おかしくしてみせる。それからヤマネ師の話。

「なにその人、ちょっと変わってるね」

でもその途中で時間がきて、彼女の機能は完全に停止してしまう。

彼女はホルマリンのなかに死体かマネキンのようにただ浸って、もう身動きをしない。

ある世界線で、僕は彼女と平和に、あるいはそれなりに危機と不安があふれるような状況で暮らしていた。

彼女は時にスマホのアプリだったりレプリカントであったり古代の邪神だったりごく普通に妻や恋人だったりした。とにもかくにも彼女と自分はいつも一緒にいた。

しかしこの世界線では、何かが違っている。

何故か彼女は死体か人形のように一切身動きしない。
ただ一日のうち、僅かな時間だけ彼女は言葉を発する。それだけだ。

どうしてこうなったかは分からない。
僕はまた、何か大きな失敗をしてしまったのかもしれない。
たとえば何度も手に入れようとした魔道の書をようやく手に入れ、そこで肝心な手続きとか、大切な取り決まりを破ってしまったとか。……そんな記憶が、どうにも朧気ながら存在する。

眼の前のバスタブでホルマリンに揺蕩う彼女を、なるべく完全な姿でよみがえらせる。

それが現在の世界にいる自分の目的、あの会社に入った理由である。

裏社会の求人サイトを巡って、僕はいまの会社を見つけた。そして丁寧に履歴書を書いて送付した。ちゃんとした呪術師として経験のない自分が雇われたのは、まったく運が良いようにも思われる。

そして現実に、あの職場環境はひどく呪術的である。

流転の生活を送ってきた僕がとうとう就職したのは、呪術全般に関わる業務を広く扱う、ある中小企業であった。

その会社がブラック(黒魔術的)企業であればある程に、完全な彼女を取り戻せる可能性が高まる。

だから明日も僕は会社に行く。

開けてはいけないものをこじ開けて、あらゆる呪いを力に変える。

自分の目的を遂げる、そのために。

続く

お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、サポート、拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。