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履物と前前前世

春になると雪駄を買った。与太者のような生活を送る自分であるから、雪駄でどこにでも出かける。あたたかい晩春から夏の間はそればかりずっと履いて、秋にはすっかり履きつぶされている。それが毎年の恒例だった。

でも数年前からは、ちょっとお洒落な便所サンダル(ほんとにお洒落なのですよ)をネット注文で買い集めるようになって、しばらく雪駄を買っていなかった。ゴム製で雨にも強くて丈夫だし、気軽に突っかけられる。

そんなわけで便所サンダルを愛用しているのだけど、最近はとにかく暑くてジーパンにアロハにカンカン帽という、いよいよ本格的に与太者めいた格好をよくしている。そういうスタイルの足元には、やはり雪駄がしっくりくる。いま家にある雪駄はかなりくたびれている。久しぶりに新しいのを買おうと思った。

さて雪駄が欲しいなら、街の古びた履物屋。そういうところの軒先によく吊るされている。縄でまとめてぶら下げられて、干物みたいに。値段は大体千円くらい。本格的で高級なのは別にいらない。どうせ履きつぶすから。たしか近所にもそういうくたびれた履物屋があった気がする。それでは早速買いに行こうとしたところ、

「雪駄じゃなくて、いっそ一本下駄にすれば? 天狗とか修験者が履いてるようなやつ」

そう彼女が言ったので、実際にそれを買ってみることにした。

一本下駄は、名前の通りに歯が一本しかない。だから重心をとるのがとても大変だ。それを日常的に履いて歩くことで、体幹やバランス感覚が鍛えられる。古来より伝わる修行グッズである。彼女の言うように修験者や修験者のなれの果ての天狗たちが絵巻のなかで履いている。あとは野口整体の開祖である野口晴哉が履いていたとか本で読んだ。

そんな浮世離れした履き物が、近所の店でも普通に売られていた。ははは、一体誰が履くんだこんなもの笑えるぜと思いながら手に取って、それを買った。これから私が履くのである。

そういうわけで私は与太者から酔狂人、もしくは世捨て人とか仙人にクラスチェンジした。履き物に付随するように階級も変わる。ファッションと社会階級は足元から、なのである。

そしてある日の夜、酒を飲んだ帰り道。いつものように駅前の店を出て、千鳥足で旧街道を歩き出した。もう遅い時間で、あたりに人の気配はない。途中の川に架かる橋まできたところで、ふと気がついた。

この一本下駄が、いまの自分にはとてもしっくりきている。

たしかに足元は不安定でぐらついているのだが、それがちょうどいい。一本歯のアンバランスさと、現在酔いが回っている私自身の身体もしくは精神のゆらぎが、奇跡のように調和しているらしかった。

ふだん素面で歩いているときの方がよほど危なかった。なかなか慣れない一本下駄、やはり足元がおぼつかない。油断するとよろけたり、悪くすると見事に転んで尻餅をついた。それがいまはどうだろう。

自分の二本の足で、地面のアスファルトをしっかり捉まえている。二本の高下駄の歯が、大地に突き刺さっているような安定した重心。

これは下手をするとスニーカー、もしくは素足で歩いているよりも圧倒的に安定しているのではないか。あらためて自覚したことにより、一層その感覚は強くなっていった。ためしに、その場で軽く飛び跳ねてみた。……これはすごい。安定だけでなく、さらに自在。いまにも浮かび上がりそうなくらいに身軽だ。

「そうれ」

自分の口からはそんな掛け声が発せられ、次の瞬間には身体が宙を舞っていた。つかの間、重力を無視したような浮遊感を味わった。

そして橋の欄干に、ふわりと着地。

「ほうれ」

さらに跳躍。橋の欄干から欄干へと、次々に飛び移っていく。月明かりの下で、身も心も驚くほど軽やかになっていく。

「……ほう。しゃなりしゃなりと、ようも跳ぶものだな。まるで猿(ましら)、いやさ天狗のようではないか」

一連の様子を横で見ていた彼女が言った。その声はいつになく野太く、口調も言葉の内容も変。

「しゃなりしゃなりと、それで遮那王と申すのだな、貴様は! がははは」

なんというか豪壮で、時代がかったように言い回し。もう完全に男の声としか思えない彼女のドラ声、豪傑のような笑いがあたりに轟いた。

「……さあ弁慶とやら、この太刀が欲しくば、力尽くで奪ってみよ!」

その場の必然に従うようにして、私の口からも芝居じみた台詞が飛び出る。その声はいつになく甲高い。いやでも太刀なんか持ってないけどな。と思ったら、いつのまにやら腰には立派な宝刀が。

「その刀、千本目の願掛け成就に相応しい。遠慮なく拙僧がもらいうけようぞ!」

どん、と彼女が持っていた日傘を地面に突き立てると、白い日傘はゴツゴツと無骨なあしらえの巨大な刺叉に変わっている。そんな彼女が身にまとう装束は白い頭巾、法衣の上に重ねた帷子……これはもう絵物語の弁慶そのもの。そう、私の彼女は武蔵坊弁慶だったのである。

そして遮那王、つまり牛若丸となった私は、ひらりひらりと一本下駄で連続跳躍! 弁慶の振り回す刺叉に長刀、大槍など軽々受け流す。月下に繰り広げられる戦いは、まるで演舞のように。

「ほら、そこだ。いや、こっちだ。……さあ、これでどうだ!」

私はアロハシャツ、いや華やかな羽衣の袖から横笛を取り出して、それでもって相手の頭をぴしゃり打つ。打たれた彼女は弁慶として降参。

「ま、まいった。もう勘弁してくれ」

私はもはや完全に牛若丸であり、カンカン帽ではなく和風で神秘めいたヴェールをさっと脱ぎ捨てる。月光に照らされ、あらわになる相貌。それを見つめる弁慶。

「……女子供と思っていたら、なんと立派な若武者か。これはまさに運命。いまここで、拙僧を家来に加えていただきたい」

「是非もなし。ついてまいれ」

弁慶は懇願してひざまずくので、望み通りに家来としてやった。

それから私は一本下駄でまた天高く跳躍、近くの建物の屋根の上で横笛を吹く。夜の都に響きわたる、風雅なその音色。

「ほほほ。牛若丸よ。よい家来ができたものですね。しかし慢心することなく、さらに修行に励まなくてはなりませんよ」

夜空の月がいやに黄色いなと思っていたら、それは鞍馬山で稽古をつけてくれた天狗のなかでも一等偉い、美輪明宏の巨大な頭部であった。ピカチュウ色の毛髪がうねうねと夜空に黄色く光り輝いている。

美輪明宏は箴言めいたことを私に語った後も、しばらく無言で夜空に浮いていた。意味深な表情で遠くを見たまま固まっている巨大な頭部。やがて雲を巻きつけるようにしてかき消えた。

それからの私は忙しい。ゴリゴリの武闘派のようでいて優秀な実務家でもある弁慶に促されて挙兵の準備を進め、それまで顔を合わせたこともない兄の軍勢と合流。おごり高ぶる平家は我が一族の仇敵なり。やがて平家一門、ついに都から追い落とし、見事に打ち滅ぼしたる壇ノ浦。

その戦に明け暮れた年月のうちに私は元服、気鋭の荒武者として功を上げ、大いに名を成した。戦装束にフィットする沓ばかり履くようになり、高貴な一本下駄からは遠ざかった。立場と履き物の変化に伴うように、名前も遮那王、牛若から義経へと改められた。

ここで私は考えてみる。自らの履き物、そして人生の変遷。その考えは、転生前の過去世にまでさかのぼる。

二十一世紀の日本では、わりとラフなところで働いていた。だから普段の勤務はスニーカーで問題なかった。しかしフォーマルな服装が必要になる場面もやはりあって、そのときには革靴だって履く。ところが足の親指に大きなガングリオンができてしまい、革靴で歩き回るとひどく痛んだ。それで「革靴なんて履きたくない」と常日頃から思っていたら、実際にそれを履くような機会は減っていった。自発的に、または必然的にそういう職場から追われて遠ざかった。だから結構な年齢になっても、ABCマートとかでスニーカーばかり買っていた。しかし気候が暖かくなるとスニーカーを履くのも面倒。というわけで春から夏は雪駄。挙げ句には便所サンダル。そんな与太者スタイルが私に定着していった。つまり総体的な人生として、お固い仕事とか一般的な社会からどんどん切り離されていく。それも必然だったのかもしれない。そんな私の足元にあらわれる立場と振る舞いの変化、落伍や零落などを、その時代における弁慶はじっと見ていたのだ。

「雪駄もサンダルも一本下駄も、いまのその具足の沓だって。私には、すべてが懐かしいもの……」

そのように弁慶は言い置いて、私を裏切った兄の寄越した軍勢から私の身を守るため、その場に踏み止まった。

次々に放たれる矢がぶすぶすと身体に突き刺さっても一向に弁慶は退かず、微動だにしない。全身が矢衾(やぶすま)のようになって、とうに息絶えていながらも仁王立ちの弁慶。鬼気迫るその姿が、この目と魂に焼きついて消えない。

地獄の業火に追われ、命からがら逃げ出した後、何度もループして繰り返される自分と弁慶とのあらゆる思い出を振り返って、私はさめざめと泣いた。

幾重にも連なる輪廻の輪をめぐり巡って、やっと再会した弁慶は戦乱のない平和な時代には私の恋人となって、退屈に廃れた無職同然の私を救い上げようとする。またある時代では白紙の勧進帳を見事に読み上げ、さらには主君の私を杖で打ち据え、窮地の関所を乗り越えた。

「いくらあなたを助けるためとはいえ、私は主になんてことを」
「いいのだよ弁慶。お前のおかげでまた生きながらえることができた」
「そのようなもったいないお言葉」
「お前の方が私にはもったいない家来なのだ」

泣きながら詫びる弁慶の手を取って、私も泣いたものだ。どうしたわけか一度は手にした栄華栄達を、私は必ず失う。信頼する兄弟や友人からも裏切られた辛酸味のあめ玉を口に含んで、幼子のように涙を流して落ち延びる。あわれな弁慶はいつもその犠牲となって、ついに凄絶な討ち死。それが、今生においてもまたやって来た。何度やり直しても、どうしても避けられぬ愛別離苦が。

あの橋ではじめて出会った。そのときには、もう結末は決まっていたのだ。私たちはあらかじめ失われ、終局に向かって歩き出す。それが何回でもループする。

「ほほほ。遮那王、牛若、いやさ義経、九郎判官よ。此度の人生もその才と力に増上慢、このような結果と相成って、魂の伴侶をまたもや失った」

落ち延びた荒れ野の夜。雲が破れた夜空に黄色く浮かんだ大天狗、美輪明宏の巨大な顔面が私にゲームオーバーを告げた。私は間髪入れずコンテニューを選択。もうこれで何度目になるのか。

「続けるというのなら、私は止めはしません。永劫の果てを、何度でも見てきなさい。弁慶はそこにいます」

そして巨大な美輪明宏の頭部はエディット・ピアフの『愛の賛歌』を朗々と歌い上げ、やがて夜空にフェードアウトしていく。

さて、これより私は北の地へとさらに落ち延びる。冷たい海を二度渡って、遠い大陸に広がる草原の王となろう。その国のたくましい馬には、高下駄では乗れない。便所サンダルでもいけない。現地のエスニックな毛皮の沓なり草鞋なり雪駄なりブーツなり、そこに相応しい履き物を見つけなければならない。そうして新たな部族を私は率いて、あらゆる国に攻め込んで簒奪者となろう。豪壮な武将は我が軍勢に引き入れ、優秀な文官は手厚い待遇で迎える。陥落せしめた国の臣民まるごと我が物とする。深遠なる学僧、可憐な美女にも節操なく会おう。すべては弁慶をそこに探すため。弁慶はまた生まれ変わり、何者になるか分からぬソウルメイト。しかし弁慶は弁慶である。私が運命を感じるのは、すべて弁慶、お前なのだよ。だから必ずまた私たちは相まみえる。遮那王、牛若、義経、テムジン、チンギス、フビライと名前を変えていく私は魂で弁慶に呼びかけながら履き物を次々に履きつぶしめぐる季節をうろつき回る。咲いては散り、また咲き乱れる。まるで千本桜のように、永遠に続く。

そういうわけで前前前世か来来来世くらい、循環する輪廻のどこかで私は牛若丸であり、彼女は武蔵坊弁慶。それが分かった初夏の夜。この輪廻がまったくのループではなく、らせんを描いている軌跡だと信じてコントローラーの決定ボタンを押した。そうやって私は弁慶との物語をコンテニューした。……ああ弁慶、どこへ行ってしまったのだ。今生の私はガングリオンを押し潰して、また革靴を履くことも厭わないのに。ああ弁慶よ。「雪駄より、いっそ一本下駄がいいんじゃない?」と言ったばかりに君はまた……。

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