道の駅のうどん屋で「正義」について考えさせられた(3)

 それは、むかし流行ったようなバタフライナイフだった。

 そんなものを、なぜヤンママが持ち歩いているのだろうか。片手でカチャカチャとそいつを振り回し、鈍く光る刃を露出させるヤンママ。器用というよりは手慣れている。

 人を傷つける以外に使い道のないそのナイフの切っ先が、真っ直ぐおれに向けられていた。

 急激に高まる緊張感のなか、おれはヤンママに改めて対峙した。

 左足を一歩前に、左手は相手に突き出す。身体を斜めにして相手に晒す面積を少なくするよう構え直した。

 いわゆる半身、空手道の基本的な構えだ。

「ナイフは手の延長線上として考えればいい。普通の突きをいなすようにして、うまく避けろ」

 道場の師範は稽古の合間、若い時分の喧嘩話をよく披露した。そこで仕入れた知識が役に立つとは思わなかった。師範には改めて礼を述べたい。

 しかし普通の突きをいなすようにナイフを避ける、そんなことが本当に可能だろうか。イメージと実戦のそれは、どうしたって違う。

「……それから喧嘩慣れした連中は、普通にナイフをこっちに向けたりはしない。こうやって後ろ手にして隠す。どっから刃物がくるのか分からない。いくら場数を踏んでも、それは怖いものだ」

 師範はそうも言っていた。その言葉には心から賛同する。

 ヤンママが、構えたナイフをすっと後ろ手に隠したのだ。

 相当な手練れということだろうか。一見するとただのヤンママにしか見えないかった。しかしその素性は分からない。

 背中を冷たい汗が伝う。打ち付けた腰骨も鈍く痛んだ。けれど、そんなことを気にしている場合ではない。

 こちらの動揺を見透かしたようにニヤリと薄く笑うヤンママ。

 そして次の瞬間、彼女は突然、獣のように吠えた。

「女子舐めんなァァァ!」

 それと同時にナイフで斬りかかってくる。

 シュバッ! シュバッ!

 閃いた刃が空気を裂く、その鋭い音。

 斜めに振りかぶってきた第一撃は、とっさに身を引くようにして辛うじて避けられた。

 続く第二撃、下から振り上げるようにナイフが走る。構えた左手ではいなしきれず、コートの袖が斬り裂かれた。

 おれは後ろに飛び退いて、間合いを取り直した。

 再び不適な笑顔を顔に張り付かせ、ヤンママは身軽にステップを踏んだ。円を描くように、おれの周りを回る。

 どこからナイフの刃が襲ってくるか、読みづらい動き。

 狩猟の快感に溺れる手練れのハンターの目で、ヤンママがおれを捉えている。

「行け、殺しちまえ! いいぞ、カヨォォォ!」

 クソ野郎の声がした。さっきのダメージからようやく回復したらしい。今度は旦那が声援を送る番というわけか。どうやらヤンママの名前は「カヨ」という。そしてカヨは相変わらず隙を見せない。素人とは思えない身のこなしだ。

 本当に怖いのは女だった。前から知っていたが、改めてそれを実感する。

「うちの家族力、見せたれや!」

 なんだそのエールは。情けねえクソ旦那野郎。死ね。心のなかで激しく罵る。

 だが下手をすると死ぬのはおれの方になりそうだ。もうすでに取り返しのつかない状況のなかにいる。この場を、どうにかして乗りきらなくては。

「いま、そこ! それ、刺しちまえ!」

 すでに何カ所かはナイフがかすめ、出血もしていた。ジリジリと壁際にまで追いつめられていく。

 このままでは本当に殺されてしまうかもしれない。


「……もう、そこまでにしろ」

「ママ〜!」

 榎木の声と女の子の声が、ほぼ同時に聞こえた。

「ティアラッ!」

「あ、畜生!」

 続けてヤンママと元ヤン旦那が叫ぶ。

 榎木が女の子を抱き抱えていた。

 その女の子自身は状況をあまり分かってはいない様子だが、つまり人質ということだ。

「まずナイフを捨てろ。……こんなこと、本当はしたくないんだ」

 感情を押し殺した声で、榎木が言った。

「ちょっ、卑怯! てかマジ信じらんね。ティアラ離せよ、変態!」

「てめえ、マジで殺す。マジ殺す」

 すっかり興奮したヤンキー夫婦は、それぞれ勝手に叫び出した。

「……うるせえな。まず落ち着いて、この状況を考えろ。あんた達だって、もうこれ以上はいいだろう。とにかく、そのナイフをしまってくれ」

 淡々とした口調で榎木が言う。

 しかしヤンキー夫婦は聞く耳を持たず、ひたすら騒ぎ立てた。

「変態ロリコン無差別殺人鬼外道いますぐ子供を離してそして死ね」

 榎木は、普段から至って温厚な男だった。もう長い付き合いになるが声を荒げたところなど見たことがなかった。

「……ああ、ほんと、うるさい奴らだ。頭が痛くなる」

 いまだってそうだ。この場をなんとか収めようとしている。

 だが、榎木の静かな声のトーンの奥底に、いままで感じたことのないような怒りが漂っている。

 それを感じとったおれは、たまらない不安を覚えていた。

「ティアラ大丈夫すぐ助けるからティアラ待ってろロリコン死ねロリコン変態社会のゴミ精神病」

 元ヤン夫婦はすっかりヒートアップ、口々に榎木を罵っている。そんな両親の姿と、自分を抱きかかえている榎木を見上げて不思議そうな表情を浮かべるティアラ。

「……お前ら、少し黙れよ。さっきから、そう言ってる」

 苦しそうな荒い息を吐く榎木。

 子供を抱える筋肉質の腕が細かく震えている。こめかみ辺りの血管が、異様に青く浮き上がって見えた。

「おい、どうし……」

 心配になったおれが榎木に呼びかけたのと、ほぼ同時だった。

 野次馬たちの人垣を押しのけて、そいつが現れたのは。

「おのれ怪人。すぐにその子を離せ!」

 野太く通るその声の主は、革製のライダースーツで全身を包んでいた。はじめはツーリングのバイカーだろうと思ったが、違うようだった。

 バッタを象ったような意匠の銀色のフルフェイスのヘルメット。目の部分は大きな複眼になっている。そして首には白いマフラー。

 その男は、仮面ライダーそのものという格好をしていた。

 ……なんだ、このコスプレ野郎は。そうか、イベントスペースでヒーローショーでもあったのかもしれない。それで今日はこんなに人が多かったのか。

 そんなふうに考えて、おれは自分を納得させようとしていた。

 さっきからの騒ぎの渦中に自分がいて、段々と現実感が失われていくような感覚があった。そこに乱入してきたコスプレ男。いよいよおかしくなってしまいそうだ。

「ライダーだ!」

「ライダーが来てくれたぞ!」

 野次馬たちが興奮して叫び出した。

 子供のみならず、いい歳をした大人までもが一斉に声をあげる。まるで本当にその正義の味方を待ち望んでいたかのように。

 その異常さと熱気に、おれは呆然とさせられた。

「あんた、そんなコスプ」

「……トゥッ!」

 ゆっくりと近づいてきたそのコスプレ男に、おれは話しかけようとした。しかし最後まで言えなかった。

 問答無用。いきなり腹にワンパンという行為によって、ライダーはおれの問いに答えてくれた。

 メキッという音がおれの身体のなかで響いた。

 あばら骨の二、三本は確実にやられていた。激しい衝撃と耐えられない痛み。その場に崩れ落ちるしかなかった。

 さっきのクソ野郎のパンチとは根本的に質が違っている。それは圧倒的な暴力だった。冷徹に、そして的確に、おれを破壊する力が行使されたのだ。

 たった一発食らっただけで、もう二度と立ち上がれそうにない。

 それは人間の力とは思えなかった。コスプレなんかではない。正真正銘、本物のライダーパンチだった。

「……やりやがったな、ライダー」

 押し殺したような声で、榎木が言った。

 ゆっくりと子供をその場に下ろしてから、ライダーに向き直る。

 おれは床に倒れ伏し、痛みで朦朧としながらも、そのやり取りを見上げていた。

「いいだろう。勝負してやる。ここは狭い。表に出ろ」

 ——おれの友達の榎木の頭部は、いつしかデフォルメされた爬虫類のようなものに変化していた。

 まるで特撮のかぶり物だと思った。しかし質感が妙にリアルぽく、むかし榎木が飼っていたイグアナを思い出した。……そうだ、あのイグアナはどうしたんだっけ。あの顔は、あれによく似ている。

 白昼夢のようなその瞬間、そんなことをおれは考えていた。


次回へ続く。

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