寝ちゅーすけ

ネコのいる宿屋


ゴールデンウィークに入ってすぐに新幹線に乗った。

姫路駅で急行に乗り換えて終点まで。そこからバスに乗る。たどり着いたのは山陰地方の山間にある温泉地。日本有数のラドン泉として有名な所である。
「三日目の朝を迎える頃には、訪れた人が皆元気になっている」
この温泉には、そんないわれがあるらしい。

ここに数年前から通っている湯治宿がある。むかしながらの自炊宿で、個人的にはものすごく居心地がいい。滞在中は、とにかく放って置かれる。だから自分で勝手に料理して(各部屋は台所付き。調理器具や食器は宿で貸してくれる)飯を食べ、早朝だろうが深夜であろうが好きなときに温泉に浸かる。そして眠くなれば布団を敷いて寝てしまう。

とにかく勝手に、自分のリズムで、ただ生活をする。
それが至上の贅沢に思えるのだから不思議だ。むしろ一般的な社会生活というものが逆におかしいんじゃないか。普段の自分は、一体何の都合に合わせて生きているのか……そういうスローライフ的な、あるいは厭世的な気づき(現代社会から「えいや」と離脱したくなる)が舞い降りてくる。それくらいに別世界の空間なのだ。

この宿は温泉街という俗世の極みのような場所にありながら、俗世から見事に隔離されている。

地下にある風呂場の底から、絶え間なくポコポコ湧き上がるラジウム泉。

日に何度かそこに浸かり、あとはただ縁側から外を眺めたり(各部屋はそれぞれ中庭に面している)して、ふやけた数日間を過ごす。それがまさに至福だった。

ここはいわば自分にとってのサンクチュアリだった。

そして、この宿には看板ネコもいる。

こいつがまた、なんとも人懐こい。

「自分の事を人間だと思っとるんでしょうな」
宿のおじさんの言葉に違わず、いかにも人間らしい振る舞いを見せるネコなのだ。

まずは玄関でお出迎え。気が向けば客室まで先導してくれる。

途中で寝転んで、チップ(なでる事)を要求したりもする。

気が済んだら、またスタスタと歩く。

そして勿論、客室にも入ってくる。まったくもってサービスが行き届いている。

気分次第でそのまま居座るし、出て行くときには勝手に出て行く。まあ、かなりわがままな客室係ではある。

宿の建物自体がむかしながらの湯治宿(開業は江戸時代だそう)なので、各部屋の出入り口が引き戸だったりする。だからうまく爪を立てて戸を横にスライド、器用に開けてしまう。

中庭に面した縁側からも、こいつは自由に出入りする。じつに慣れた動き。とにかく、この広い宿の敷地全域を(ときには外へ遠征も)自分の縄張りにしているらしい。

あるとき、しばらく姿を見せないので心配していたところ、廊下で宿のおじさんが手招きをする。なんだろうと付いていくと「ほらここに……」

のぞき込んだ使われてない客室の押し入れで、ネコはスヤスヤとよく眠っていた。
「自由自在ですわ」おじさんが笑いながら言った。

それから、こんなこともあった。
買い出しから帰ってくると、ガラス戸がすこしだけ開いている。おそらくは留守中にネコが上がり込み、自分がいないのですぐに出ていったのだろうと思われた。とりあえず荷物を置いて、コタツ(冬にはコタツが用意されている)に冷えた足を突っ込んだ。ムニュという、明らかに有機的な感触を足先に感じた。驚いてコタツをめくると、ネコはそこにいた。
「なんだよ。おれは眠っているんだ。迷惑だぞ」
なんて言いたげな寝起きの顔が面白くて、すかさずスマホを向けた。

これは前回ここを訪れた、一年とすこし前。まだ寒い、春先のことだったと思われる。

そして今回の滞在。

思う存分に温泉に浸かり、それから畳の上に大の字に寝転ぶ。縁側からながめる庭木の緑。そして気まぐれにやって来ては去っていく看板ネコをなで回す。長い連休を、ただそうやってひたすら無為に過ごすのだ……。

休みに入るかなり前から、自分はその生活をひたすらシミュレートしていた。むしろ、それだけが日々の救いのようになっていた。とにかく自分はまっとうな社会生活というものに向いていない。毎日電車に乗って会社に通う生活が辛くてたまらなかった。本来の自分(そんなものがあればの話だが)を、あの宿で取り戻せるはずだと考えていた。

そして待ち焦がれた連休。
早朝から家を出て、ようやくこの聖域に辿り着いたのだった。

あらかじめ家から送っておいた荷物(調味料や衣服)を解いていると、宿のおじさんが調理器具と食器を持ってきてくれる。
そういえば、まだあいつの姿を見ていない。
そのことに気がついて、おじさんに聞いてみる。

「チュー介は元気ですか?」
「ああ……」
「いま、どっかに遊びに行ってるのかな?」
「いやチュー介は死んじゃったよ……」
「え……!」
「もう一年くらいになりますかねえ」

驚いた。
一瞬、本当に言葉が出なくなってしまった。

あのネコが、チュー介が死んでしまった……。

もう十歳は超えていたらしいから、人間にしたらかなりのジイさんだったはずだ。だから寿命的には不思議でも何でもない。死んでしまったと聞いて驚いたのだが、何となく心のどこかでは予想されていた気もして、それがすこし奇妙な心地がした。

そうは言っても、やはりショックは大きい。

おじさんが食器と調理器具をのせていたカートを押して、廊下を歩いて帰っていく。前回来たときは、宿の入り口からずっとチュー介がまとわりついてきた。それから、おじさんの押すこのカートにちょこんと乗って帰っていったのだ。(しばらくして、またすぐに中庭からやって来た)
その情景がはっきりと思い出された。より一層の寂しさが募ってきた。

ああ、チュー介。
もうお前、いないのかよ。

正直な所、自分で飼っていたわけでもないネコが一匹亡くなって、こんなに悲しくなるとは思わなかった。しかし悲しい。本当に悲しい。前もって送っておいた荷物を解きながら自分は泣きそうになった。というか本当に泣いてしまった。

「いい年した男が、ネコのことなどでメソメソと。じつに見苦しい」

自分の心のなかに住み着いている、謎の封建的タイプの親父(ペルソナ的なもの?)が、そんな苦言を呈してくる。でも実際もっといい年した(というかとっくに故人。レジェンド作家である)あの内田百閒先生だって「ネコが帰ってこない」とメソメソ泣き暮らしていたのだ。自分がこうなるのも無理がないことだ。

だってネコはいつの間にか、しなやかにひとの心に入り込んでくる。それが突然いなくなれば、ぽっかり開いた穴がそこに残される。

とにかくチュー介は、もういないのだ。これまでのように気まぐれに遊びにきたりはしない。

もういないと頭で分かってはいるのだけれど、夜ひとりで床につこうとするときに縁側の方でガタガタと戸が鳴る。すると自分はつい「チュー介か?」と気になって確認しに行ってしまう。もちろんそこに白ネコの姿はない。

ふと夜中に目が覚めて、部屋からすこし離れた所にあるトイレに行くとき。自分の周りの部屋に宿泊客はおらず、中庭に面した渡り廊下はうす暗い。夜は恐ろしいくらいにシン……としている。

「いつもなら、チュー介が付いてきてくれたりしたのに……」って、それこそ女の子みたいな事を考えている自分にちょっと驚く。でも人間の内面なんて大して進歩はしないのだ。ただ外側が徐々に老けていくだけ。すくなくとも自分は子供の頃と変わらず、夜の暗闇や幽霊の類いがとても怖い。だからチュー介の存在は頼りになっていたのに……。
仕方ないから一人でトイレに行って、そそくさと足早に帰ってくる。

明け方近くになって、熟睡できずに布団でまどろんでいると、枕元にネコのような気配を感じる。

幽霊は怖いのだが、チュー介のそれならば別に怖くはないような気がする。ただすこし不気味ではある。しかし生前あれだけ宿を自由自在に行き来していたのだから、死んでからも変わらずにそうしていて、現在唯一の宿泊客らしい自分の所に遊びにくることに、なんら不思議はない。大体あのネコは部屋に遊びにきても何をするでもなくジッとしていた。それから気まぐれにスッと帰っていく。仮に化けて出ても、それはあまり変わらないように思えた。ただ、そこにいるだけ。

案の定、夜が明け切った頃には、その気配もいつの間にか消えている。あくまで気配だから、それは主観的で曖昧なものなのだが、たしかにあったように感じた。本当のところはどうなのかは分からない。

「ああ、チュー介……」
朝風呂の帰り、入り口の戸の端にネコの爪痕を見つけた。それで自分は思わずまた嘆息してしまう。

とにかく、さびしい。

なにせ自分は一週間以上この宿に滞在する予定なのだ。
放っておかれるのがこの宿の売りではあるのだけど、それはチュー介がいたからこそのバランスだったのかもしれない。

いまは、すごくさびしい。

さびしさからか、夜になるとやはり気配を感じる。でもそれは朝になるとやっぱりスッと消える。「ニャーン」なんて鳴きもしない。

そうやって数日間、まるっきり一人ぼっちで過ごしているうちに「(チュー介いないから)行くのが辛い」としぶっていた家人が、ようやくやって来た。宿のおじさん、おばさんに改めて挨拶して部屋に着くと、

「……もう本当にいないんだね」

彼女もさびしそうにつぶやいた。

「でも気分変えて、のんびり楽しく過ごそう。せっかく来たんだしさ」
「そうだね」

そうやって仕切り直してはみたものの、やはり以前とは違う。このサンクチュアリから大切なものが欠けている。そんな気がしてならない。なんとなく張り合いがない感じが抜けず、ただ風呂に入り、近所に買い出しに出かけ、米を炊いて簡単なおかずを作った。

それから我々は二人とも、とにかくよく眠った。とにかく眠くてたまらなかった。この所、お互いに疲れていたのかもしれない。

このまま二人とも、どこか陰気な感じのまま連休を過ごすのか……まあ山陰の雰囲気と混じりあうような情緒で、それもいいかもしれない。なるほど裏日本か……いや裏日本って、よく考えたら物凄い失礼だよな、住んでる人からしたら。でも情緒はありそうな……。

そんなことを考えていたところに、思わぬ来訪者があった。

自分はインターネット空間において「民話ブログ」というアカウント名で、日記なのか小説なのか自分でも判然としない文章を細々とアップしている。(つまりあなたが現在見ているこのページ、このアカウントですね)
このnoteやTwitterで交流の生まれたご夫妻が、わざわざ自分たちに会いにきてくれたのだった。

なんとなくぼんやり気が抜けていたところに、不意のゲスト。自分と彼女は急に色めきだって部屋を掃除したり、お客を迎える準備を整えた。

そして、ウネリテンパ氏y.さんが、ふたり揃ってやって来た。

聞いてみたいことや話たいことは山のようにあったのだが、自分はおそろしいほどに人見知りで、たとえば相手の目を直接見られない。あくまで物怖じしない彼女の陰に隠れるようにして、最初はなんとなくモジモジしていた。

ところが自分は人見知りであると同時に生来のオシャベリでもあり、また酒や非現実的な妄想にすぐに逃げ込むという傾向がある。

そういうわけで、気がついたときにはウネリ氏がお土産に持ってきてくれた日本酒を一人でコプコプ飲み散らかし、さらに昼食の席でも一人だけビールを頼んだ。それでベラベラと、自分でもよく分からないことをしゃべっていたようだ。改めて思い返してみるとちょっと恥ずかしくなる。どうもすいませんでした。

「いつも民話さんが『彼女』に実体を与えているように書いていますが、本当は逆だったのですね。実際に会ってみて、よく分かりました」

さて、これは帰り際にウネリ氏がつぶやいた言葉である。とても意味深なものに思える。夕方頃にウネリ&y.夫妻は自家用車に乗り込み、山の向こうの隣県に帰っていった。

先にリンクを貼ったy.さんの記事にも載っているが、これはy.さんが我々に会った際の印象をGIFにしてくれたもの。いつもながらクオリティが高く、じっと見入ってしまう。細かい所まで本当によく作りこまれている。

ウネリ&y.夫婦を見送ってから、自分たちは買い物ついでに辺りを散歩することにした。
温泉街の側には大きな川が流れており、その横の道を歩いていく。

「あれ、何だろう?」
「あれってなに?」
「ほら、あれ」

指差しているのは、川の流れるその先の方。かすかに見えたのは、なにか白いかたまりだった。しかしそれはどんどん遠くへ流れ去ってしまい、すぐに見えなくなった。

「あれ、ネコじゃないの? なんかモフモフしてなかった?」
「ネコって、白ネコ?」
「うん。もしかしてチュー介が復活」
「まさか」
「でも元々、チュー介って、あの庭に捨てられてたんでしょ」
「そうみたいだけど」

滞在している湯治宿は、じつはこの温泉地のなかでもかなり古くから続いている、歴史ある宿屋だった。あまりそんな感じもしないのだが、宿のおじさんも先祖代々この辺り一帯を仕切っていた土地の名士らしい。そう考えると宿のある場所は、むかしは村の中心地だったのかもしれない。敷地内に小川まで流れている。その水がきれいだから、夏になると蛍が舞う。はじめてここを訪れたときは、ちょうどその季節だった。ごく普通にガラス戸の向こうで蛍が舞っていて、とても驚いた記憶がある。

「ああやって、山の上の方から川を流れてきたのかもよ」

温泉地からさらに山を登っていくと、古くから信仰の対象とされてきた霊山がある。その山は修験道の聖地であり、険しい山道に鎖場まである。その困難な道のりを乗り越えていった先に、古いが立派なお堂が建っている。お堂には「役小角が神通力で一旦お堂を小さくして、ポーンと投げ入れた」という伝説がある。それくらい傾斜が厳しいところに建っているのだ。たしかに人知を超えた力を使わないと、あんなものは建てられない気はする。あの山には神様や天狗やヤマノケだとか、聖俗ひっくるめた得体の知れないものが棲んでいる気配が濃厚に漂っている。自分はそういったものに感応しやすいタイプなのだ。

「するとあいつも元々ただのネコじゃなかったと」
「うん。だって本当に人間みたいだったし」
「それはそうだったけどさ」
「……いや、前に見ちゃったんだよね」
「え、なにを?」
「戸を開けて勝手に入ってくるのは、まだ普通のネコだけど……」

開けた戸を自分で閉めていくのは、化けネコだ。

そんな話を、以前なにかで読んだか聞いたかしたことがある。

あのネコは基本的に開けっ放し野郎だった。冬に来たときなどは随分と寒い思いをさせられた。しかし前回などは、出ていった後に戸がちゃんと閉まっていたではないか。そんな記憶が、たしかによみがえってくる。

「だから、そのうちまたあの庭に復活、というか出現する」
「そう言われたら、そんな気もするなあ」
「でしょう」
「……あとは、あれかな」
「なに」
「あの庭に生えている植物のどれかに、チュー介が実る」

それはきっとあれだね、水木しげるの怪奇短編か鬼太郎シリーズのどれかにそんな話があった気がする。植物にネコが実って、産み落とされるような話。たしか作品のテイストとしては不気味なホラーだった気がするが、いまの自分たちにとっては、実際そうなればうれしい話だった。

「元々はねえ、こんな小さくて。ほんとにネズミくらいなもんでね。だから『こらチュー、このチュー介』なんて呼ぶようになって」

庭に捨てられていたときのチュー介の様子を、宿のおじさんからもう何回も聞いていた。今回チュー介が死んだときのことを話してくれたときにも、おじさんはこの話をまた繰り返した。

散歩から帰る頃にはもう日は落ちて、宵闇が辺りを支配しようとしていた。

物干し竿に干したままだったタオルを取り込むときに、視界の隅を白い陰が横切ったような気がした。入浴に行く途中、渡り廊下からも同じような白い陰が見えた。
チュー介の亡き骸をおじさんが葬ったのは、あそこの石灯籠の脇あたり。晴れた日には、そこでよく日向ぼっこをしていたらしい。

階段を降りて、お風呂場に向かう。浴場は半地下になっていて、天井近くにある窓からは月明かりがこぼれる。なんとなく電気は点けないでおいた。わたしは幽霊も暗闇も、別に怖くはないのだ。薄闇のなかで、温かいお湯にポチャンと身を浸ける。自分の境界線が、さらに曖昧に溶けていく。

「ああ、やっぱりいい湯だね」

よく聞きなれているはずの男の声が、少しくぐもって他人のように聞こえるのは、この環境のせいだろうか。だからといって別に驚きも怖くもないのだけど、とりあえず彼には苦情を言う。

「ちょっと、なんで勝手に出てくるの? いま入浴中なんだけど」
「ここ、別に男湯とか女湯とかないじゃん」
「だから、ちゃんと『女性入浴中』って札かけておいたでしょ」
「いまさら何言ってんだよ」
「慣れ慣れしいな。なんか調子乗ってる? ただの影のくせに」
「分かった分かった」

わたしの抗議を受けて、薄闇のなかで一際に色濃い、人型の黒い影はスゥ……と消えていった。

影はつまり、わたしの生み出したペルソナとかシャドウなんていう曖昧な存在が、それなりの強度で実体を持ってしまったものだ。だから本来はわたしの意思に従属していなくてはならない。なのに勝手なタイミングで出てきては好き勝手にしゃべる。そうやって彼が存在を主張しているというのは、わたし自身が弱っているということかもしれない。

「入り口の札を『家族風呂』に変えてきたよ」
「……なに言ってんの?」

呼んでもいない影がまた現れた。そしてポチャンと湯に浸る。

「だって、おれは君の弟みたいなものだし、つまり家族みたいなの……というかそれ以上じゃないか」
「……」

わたしには歳の近い弟がいた。いたはずだった。実家にある古い蔵のなかで、その弟とよく遊んだことを憶えている。いつの時代のものかも分からない本や巻き物、何に使うのか分からない道具や装束で、わたしと弟は日がな一日遊んでいた。それだけで世界は完結していたからか、中学生になる位まで、わたしには同年代の友達がいなかった。ちょうど私立の中学に入る頃に、弟はいなくなってしまった。ある日突然、あの蔵の暗闇で輪郭を失ってしまったように、弟はどこかへ消えてしまった。家の人間の誰に聞いても、わたしに弟などいないと言ったが、それでもわたしは憶えている。たしかに弟はいたのだ。

「だから君はおれをつくった、あるいはまた呼び寄せたんだ」
「……」
「まあ十年以上は表に出てこられなかったわけだけど」
「べつに、いなくたって平気だったから。あれから、ちゃんと生活も人生も充実してたわけだし」
「まあ、そう言うなよ。いまはもう、いつでも一緒なんだ。ずっと君の後ろにべったり、影みたいにしてるだろう」

そうだ。この弟のような背後霊は、大人しい影のようでいてとても主張が激しい。人見知りのくせにペラペラよくしゃべる。小さい頃からそんな性格だった。最近では「民話ブログ」なんて巫山戯たアカウントを作って、わたしをスマホのアプリだとか古代の邪神だかのように仕立てて、よく分からない話を書いたりしている。「一般受けしない路線がなかなか格好いいだろう」とか開き直るくせに人気アカウントには嫉妬する。本当に勝手な存在だ。自分こそが魑魅魍魎だとか悪霊の類いに他ならないというのに。

……やれやれ。またつい長風呂になってしまった。
夕飯を用意するのも面倒で、わたしは倒れ込むように布団で横になる。

なんだか妙に疲れているのだ。

明け方近くに、縁側のガラス戸がガタガタ鳴った。
きっとまたチュー介だろう。カギはかけていないのだから、勝手に入ってくればいい。いつもわたしが招き入れるようにして部屋に入れていたから、横着して開けてもらうのを待つようになっていた。
こいつも困ったネコだ。

わたしはやっぱり、ぐったりとして起き上がれない。
やがて白いネコの気配は勝手に部屋に入ってきて、枕元までやってくる。なつかしい気配だ。
でも弟が言うには、朝になれば出ていってしまうらしい。もうちょっと存在が定着すれば実際に撫でてやることも出来そうだった。

やがて朝になる。
ネコの気配はもうしない。

「ね、言った通り気配がしただろ」
「……そうね」

時間的には十分に寝ているはずなのに、やはりどこか身体がグッタリしている。これは湯疲れとか,湯あたりの一種かもしれない。湯治にはつきもののやつだ。でもお風呂はやっぱり気持ちいいものだから、サッとでも入りに行く。わたしは腹の据わった湯治客なのである。

湯船で目をつむっていると、また背後から弟がしつこく話しかけてくる。

「ねえ、知ってるでしょ。シュレディンガーのネコ」
「……ああ、最近のSFとかには大体出てくる量子力学の?」
「まあ、それ」
「あなた思い切り文系で、理系の知識なんてほとんどないでしょ?」
「……でもSFは好きなんだよ」
「まあ、いいけど。それがどうしたの?」
「だから観測者問題」
「ああ、なるほどね」

揺らぎとか超ヒモ理論とかパラレルワールドとか、詳しく綿密な説明はわたしだってするのが面倒だし、むずかしい。いまは入浴中で、スマホでウィキペディアを確認することも出来ない。だからごくいい加減に済ますのだけど、一応は説明しておく。

とにかく箱のなか、誰も見ることのできない空間のなかにいるネコが生きているか、そうでない状態なのか。それは誰かが箱を開けて確認するまでは確定されていない。

たしか、そういう話だった。
そういえば民話ブログというアカウントで、わたし、あるいは弟は、こんな記事を書いている。 →「この世界が仮想現実であることが証明された。」
こういう話が、じつは弟もわたしも元々好きなのかもしれない。だって、いま生きているこの世界が唯一現実だなんて、とても思えないから。

「そうやって、いま自分自身がすごく曖昧な状態にいる」
「なんだか疲れて(憑かれて)るみたいで、頭ぼうっとする」
「そうそう。とにかく君は眠い。一応は起きていても、半分は眠っているような……逆に眠っている間の方が本当のような……」
「うん。まあ、そんな感じ」
「そもそも、いまおれとこうやって会話をしてることがおかしい。でもそうやって、おれと自分、あるいは君とわたし、男と女、憑依体質と背後霊とか、そういう主観も対象もすべて混同されて、境界線がものすごく曖昧になっていくわけだよね」
「ああ、これは、そういうことなのか。ラドン泉には、そんな効能もあるんだ。知らなかったー」
「まあだから、この状況を利用することによってだね」
「……死んじゃったネコもまた生き返るかもしれない」
「そういうことですよ。姉さん」
「なるほどねー。……わたしもいよいよ深刻にメンヘラだ」
「あとさ、この場所って、なんだかあそこみたい」
「え、どこ?」
「ほら、ソ連の有名なSF映画に出てくるゾーンっていう場所によく似てる。前に一緒にビデオ観なかったっけ? 『ストーカー』って映画」

背後霊による名作SF映画の説明を聞き流しながら(弟と違って、わたしは映画にほとんど興味がない)、まずはこの状況を、きわめて臨場感あふれるものとして、しかしあくまで曖昧なまま再定義・再構築する事を試みる。これはなかなか難易度が高い。しかし自分には必ず出来るはずなのだと、わたしは分かっていた。

むかしから変わらずにこの宿はあって、それはむかしといっても歴史的には江戸時代とかそれくらいなんだけど、どうやらこの場所の空間とか時空は微妙に歪んでいるようだから、ざっと計算して実際には八千年とか一億年とか、それくらい前から、この空間は変わらずにここにある。時間が重なり合って流れている。わたしはそれを知っている。その途方もなく長い年月の間には数多の人々がここを訪れて、たとえばこのお湯に浸かってぼんやり考え事をしたり養生したり……。それでチュー介や宿のおじさん、おばさん、宿を訪れる湯治客(わたしもそこに含まれる)も、みんな時間の経過で歳をとってやがては死んじゃったりはするんだけど、結局ちょっとしたら復活というか再構成というか再配置されて元に戻る。いまのところ永遠にそれは続いている。この瞬間に自分が知覚している通り、この瞬間が永遠に連続して途切れない。源泉はこの湯船の底から、ずっと変わらずにポコポコとわき上がっている。

例えば、これが現在わたしから観測される世界(この宿)の様相だ。この再定義に従い、さらに細部を改変していく。あくまで曖昧に、半覚醒した脳の自動作用を頼りに、浴場に漂っているモワッとした湯気をしっかり掴むように、いまここにある実相を、わたしという主観が捉え直す。

つまりあのネコは、一年前に死んでなどいなかったのだ。

わたしたちが前回訪れてすぐに、チュー介は死んでしまったらしい。いまのところ現実はそのように固定されている。

「なにか他所で、悪いモノでも食べたんでしょうな。腹がこうペッタンコになっとりまして。三日くらい帰ってこなくてさすがに心配しとったら……でも最後にはちゃんとここに帰ってきましてな……」

宿のおじさんの言葉から辿れる、その決定された事実を改変する試み。

細部を書き換える、あるいは置き換える。別名で保存する。いっそ上書き保存してしまう。とにかくそれをなかったことにする。仮にタイムスタンプや変更履歴が、アカシックレコードとかHDDに絶望的にはっきり刻まれて、完全になかったことにはできなかったとしても……。

意味と解釈に揺らぎを与えることで、存在の様式はきっと変えられる。そのことを、わたしはよく知っている。もうずいぶんと前に、すでにそれをしたことがあるのだから。消えてしまった弟と一緒にいた、あの暗闇のなかでの一人遊び。それをまた繰り返してみればいい。

「……だから、そのゾーンていうのは磁場がずれてるとか歪んでるとか、なんかそういう特殊な場所で。その中心部にうまく辿りつけば願いが叶うとかなんとかっていう噂があって、そこへの案内人として『ストーカー』っておっさんがいて、ええと、あと、なんだっけ……」

かつて自分の弟であったかもしれない、丸メガネをかけた墨汁のような背後霊は、むかし観たらしい映画の筋書きを曖昧に語っている。きっと、うろ覚えなのだろう。でもとにかく語りたい。そういうタイプだ。もうちょっと色々、ちゃんと役に立って欲しいとは思うけど……まあ別にいいか。自分に弟がいれば、きっとこんな感じなのだろう。そんな輪郭を、このわたしが望んでいたのだから。

エロイムエッサイム、エロイムエッサイム。
我は求め訴えたり。

たとえば、そんな安っぽい呪文を唱えてみる。でも、これだっていいのだ。いやむしろ、これでいい。

それから自分は風呂から上がった。
また長湯になってしまった。いや長湯どころではない。つい湯船のなかで眠ってしまったらしい。とにかく眠い。これも温泉効果か。頭がクラクラして、足取りはフラつく。まるで他人の身体を操っているような気がした。やはり湯あたりには気をつけなければ。

部屋に戻ってくると、縁側のガラス戸が半開きになっている。そして椅子の上では宿の白ネコがスヤスヤと眠っていた。

「なんだ、お前また来てたのか……」

呼びかけようとして、止めておいた。
ネコはいかにも気持ちよさそうに眠っている。このまま、そっと寝かしておいてやろうと思う。

眠るように死ぬ。
死ぬように眠る。

「繰り返されるそれらは、じつは同じことだよね」

ふと自分のなかで誰かがつぶやいた。ペルソナとかシャドウとか、アニマとかアニムスとかジョジョに出てくるようなスタンドだとか、とにかくそういう類いが発した言葉のように感じた。
「なるほど。そうだね」と自分は頷いて、畳の上に寝転んだ。

「この世界は、眠っているネコの見ている夢かもしれない」

そんなSF小説か映画が、あったような気もするし、なかったような気もする。まあとりあえず、このネコの眠りを妨げないようにして、自分もすこし眠ろうと思う。

好きなときに温泉に入り、好きなときに眠る。それが、この宿での基本なのです。ネコのいる湯治宿、万歳。ここは永遠に最高だ。こんな温泉で暮らしたいって、自分は心から思っているのですよ。

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