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人の心にふれる仕事をするということ

 文字を書いて何かを世に問うことや、やり場の無い悲しみや怒り、やるせなさを歌にすること、歌うこと。身体表現として、躍り、演じること。絵を描くこと、立体作品を作ること、写真を撮ること、映画を撮ること… そのほかさまざまな表現する、ということ。

 それは、わたしたちが皆、この世界に身体を持って生まれてきた「星の子」ゆえに、生きていく上で誰もがかかえざるを得ない痛みを、涙を、悔しさを、屈辱を、何らかの形を借りて知らしめようとするものである。

 それは、表現されたからといって、どうなるものでもないものである。決して本質的に癒されたりはしない。苦しみは決してなくならないし、どうかすれば、増幅されてよけいに辛くなることさえある。

 けれど。それがあるからこそ、わたしたちは泣くことを思い出したり、笑ったりできるのではないか。
 マトモな神経では、とてもとてもこの世界では生きていけない。自分が狂っている事に気づいたマトモな人が、狂人扱いされるのだから。
お笑いですよ、本当に笑うしかない。
 いや、私は怒っている。

 ワタシはマトモだと思い込んでいる輩の、いかにも、正しい事でござい、と得意気に叫ぶその肩をたたいて、もしもし、それは一体どういうことなんでありましょうか?なんて、聞いてみた所で、それはせいぜい聞こえないふりをするか、精一杯虚勢を張って、見下したような目をしては見せるが、その実、それの中に根拠なんてモノは微塵も無く、ただ世の中の多数に「見える」意見に迎合して、うまく世渡りをしただけであろう。
 
 だが、あなどってはいけない。
 世間というものは、常に、本質を見極めているものである。
 誰かがまことしやかに言う当たり前だとか、常識だとか、正義とか善悪だとかに、すがりついて生きている人には決して見えない、ただ一つの本当がちゃんとあって、分かっている人はちゃんとそれを知っているから、茶番劇にいちいち付き合ったりはしない。
 われわれに、そんな暇なんか無いのである。
 おととい、きやがれ。

 人の心にふれる仕事をするという事は、とてつもなく重い十字架を背負うことである。
 イエス・キリストが十字架にかけられ、ユダがその導きをした(と、いう説を私は支持しているので)ことを後悔して自害する、ということは、そのどうしようもなさを表している気が私はするんである。
 ちなみに私はクリスチャンではないし、特に信仰している宗教も無い。
 神様なんているんかいな、というアホである。
 ただ、キリストの話は私が生きるこの世界のある種の不条理を、うまく言い当ててるな、と思うんである。ロクに知りもしないで偉そうでしょ? だけど、そんなもんでしょ。
 あなただって、日々、このどうしようもない世界で生きて、なおかつ、誰かに優しくしたいと思って過ごしているはずだから、この件に関しては同意してくれると、私は確信しているからこそ、こんなことをいちいちここで確かめたくなってしまうんである。

 傍観者のままでいるつもりならば、傍観者の覚悟くらいは持っていてくれるのでしょうね?
 この世のあらゆることを、白か黒か、善か悪か、イケてるかイケてないか、絶対的な価値があるか無いか、金があるか無いか、正しいか正しくないか、その他様々なわけわからん理屈で決めつける。
 いつでも逃げられるような安全地帯から、中身の無い空っぽなくせにそれらしいことしか言えないような、そんな人にはどんな小さな事ですら、何一つできやしない。
 絶望からすら見放されていることに、気づかない事には、同情はするが、私にもどうしようも無い。不幸、というのはまさにこのことだと思うほかはない。

 なんのことやら、と思われてるだろうな。
いいんです。これは、わかる人にだけ書いた、私の真夜中のラブレターなんである。
 朝になったら、絶対消すヤツである。
 だから、気が変わらないうちに、とっとと投稿することにする。
 あーあ、こういう性格、死ぬまで治らないんだろうな… 疲れるわ!

 

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