答辞

私のミスiDは卒業らしかった。
開始以来毎年応募してきて落ち続けていた。

2013年以来なので、7年。7年かかった。ここまで来るのに。
7年前は、まだ夕月未終という名前ですら無かった。顔も出さず作品撮り写真だけを載せて詩を綴っていた。

バンドをやってみたり、写真集を作ったりそれをデザフェスで展示なんかをしていた。
歌って踊るアイドルになりたいなんて、これっぽっちも思ってなくて、でもシンガーにはなりたくてネットアイドルの全盛期だったと思う。わたしはそれを顔を出さず、でも細く長い手足と真っ黒の姫カットロングヘアの制服姿の写真で、とにかく文字と写真を投稿し続けていた。


毎日死にたくて、役者に歌手になれないくらいなら、死んだって良かった。公立高校の受験に失敗したら声優学校へ入学する予定だった。中学から帰っては、ひとりでベースを弾いていた。

ありとあらゆるオーディションには、落ち続けた。若さを失えば死んでもいい。それしかやりたくなかった、私を救ってくれたのはだれかの音楽だった。映画だった。生きる楽しみはドラマだった。高校時代は、近所の知り合いの慶応ボーイ(笑)と毎月のようにライブをしてた。
ずっと身内のまんまだとはわかっていながらもすでにそこでライブイベントスタッフとしてもノウハウを得ていった。


とにかく毎日が退屈で、自分ひとりの人生が耐えきれず、どうしてもどうしたらいいかわからず、ツイッターでアイドルになった。アカウントさえつくればアイドルになれる時代だ。私の人生は学生生活が本分ではなかった。いつももっと違うどこ遠くをみていた。
既存のアイドルになりたい訳ではない。私は死ぬまでに必ず企画脚本監督主演編集をすべて自分でつくる映画をつくらなければならなかった。それが、唯一の生きている、生き残る意味だった。


叶わない。私の夢は、叶わない。だから、自分で叶えてあげるしか無かった。
バンド、できた。モデル、写真集を作った。写真家、自分で作った作品を展示できた。作詞家、友人の作る曲に歌詞をつけた。偶像崇拝、アイドルと自称して存在し配信を行ない続けた。


これが、私の人生なんだと思ってた。ミスiDに出逢うまでは。


まだ見たことのない女の子。
誰かの明日を元気にできたら、それはもうアイドル。


それとなんだかどんどん真逆に私はとにかく怖い人になっていった。どんどんわかりにくくてどんどん勝手に夕月未終が出来上がっていった。気づけばラジオに出演したり、シンガーとしてデビューしていたり、なんでかな、地下アイドルもどきとしてまたライブハウスに居たの。


ネットバラエティ番組の準レギュラーをしたり、ファッションブランドのモデルをしたり、アクセサリーブランドを立ち上げラフォーレ原宿のセレクトショップの一日店長みたいなこともできた。


そんな活動をしていく中で、ミスiDとも、地下アイドルとも仲良くなっていった。フリーでの活動、イベンターとの関係性、ファンとの距離、運営という存在の危うさ。とにかく若い女の子には危険な場所で問題がみるみる浮き彫りになり、そして私はようやくこのカルチャーの気持ち悪さと楽しさ、儚さを知った。
これは、フリーで活動する女の子たちは同盟でも組んで身を守る体制を整えなければならない。私はそのシステムの構築のために奔走していた。
そんな時、ツイッターがバズった。
「解散した地下アイドルの楽曲カバーだけをやるアイドルグループを作りたい」


あっという間にメンバーが集まり、楽曲が集まり、デビューイベントが決まり、ロゴができて、グッズもできた。
そこからここまでは本当に記憶に無いくらい苦しめられたし最悪だったし、体も壊したし、眠れなかった。


本当に作りたかったアイドルグループの企画は手もつけられず、自身のオリジナル楽曲でのソロ活動にも手を付けられない、知らないところに知らない自分がいて、事実と噂に全員が振り回されて常識だと思っていたことも大切にしてきたものも、すべてがないがしろに扱われた。
周りをとりまく環境に、自分自身に。


私は、まだ全然なにひとつ持ってなくてなにひとつ完成していなくて、私の中の夕月未終の完成には、あと一年半はかかる。まだまだ戦いの途中だった。
7年経った。私はミスiDがあったから、ここまでこれた。私は私こそが完成すると誰よりもミスiDなのだと疑わずにここまできた。
7年。審査員特別賞。これが私の歩んできた答えだったのだろうか。悔しくて悔しくてたまらない。完全な夕月未終で評価されたかった。
だけどね、この賞をもらえて、初めて、ようやく、いっぱいいっぱいだった自分の状況がみえてきたよ。
だからね、卒業なんかじゃない。私はここからまた、戦いが始まるの。今度こそ、私自身との、一騎打ち。みてろよいまに理想を超えてやる。


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