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黄色の戦友

「すみません、そこ、土足厳禁ですよ」
 恐る恐る声をかける。でかでかと「土足厳禁」の文字が刻まれた貼り紙が三枚も貼ってあるのに、その文字が意味を持たない記号なのではないかと不安になるほどに、その少年は何の躊躇いもなくカーペットの中に踏み入っていた。
「あ、ほんとだ。ありがとう」
「この教室、靴箱ないですもんね…!私もどうしたら良いかよくわからなくて…ずっとこの外にいました…!」
 私は、塾の特別講習を受けに来ていた。中間テストで英語をやらかしてしまい、両親にこっぴどく叱られた結果、不本意ながらも塾に入れられそうになっている。今回受講するのは、お試しのような形で開講されるものだった。私は学区の端っこに住んでいるので、同じ中学でこの塾に通っているという子は聞いたことがない。そんなわけで少し緊張しながら、塾に向かったところ、早く着きすぎてしまった。教室をパッと見た感じ、少人数で受講することはなんとなくわかった。教室の中で休んでいようかと思ったが、土足厳禁な上に靴箱が存在しない。仕方なく廊下の椅子に腰掛けてぼーっとしていた。
「あんたも英語苦手なの?」
「はい…この間のテストがちょっとやばくて…」
 同い年のはずの少年は初対面なのにふてぶてしい。少しムカッとしながら顔を見ると見覚えのある顔だった。でも、どこで見たんだっけ。えっと…うーん…バナナ?あ、バナナだ。バナナの人。部活の大会のときにいつもスタンドでバナナを食べている人。バナナを食べているところしか見たことがないから、部員なのか誰かの応援に毎回来ている人なのかもよくわからない。私の中で彼のことが少年からバナナの彼へと認識が変わった。
「随分早く着いちゃったみたいだね、俺ら」
「あと三十分以上ありますね、多分」
「なんだか寒いし、自販機であったかい飲み物買ってきていい?あんたも飲む?」
「んーじゃあ、私も飲もうかな」
 バナナの彼はココアを買ったようだ。私は少し迷ってコーンスープに決めた。缶で手を温めながらさっきの椅子のところまで戻る。
「なあ、死ぬときってどうやって死にたい?」
「え?」
「あんたと初めて会った気がしなくてさ」
「だとしてもそんな質問しないと思いますけど…」
「気になるんだよ。だって俺ら共通の話題がないだろ?人は誰しも死ぬものだから」
「じゃあ、世界に爪痕残して死にたい」
 相手が突拍子もない質問をしてきたから同じような温度の返しをしてやった。しっかりと相手の目を見てしてやった。でも本当にそう思っている。
「どうやって?」
「わからない。でも、私が死んでもずっと忘れないでいてくれる人なんて誰一人いないと思う」
 何でこんな話をしているのかわからないが、きっと後腐れない相手なので、引かれようと変な目で見られようと、どうでも良い気がしてきた。
「世紀の大発明をして伝記に載って語り継がれるとか、前代未聞の大事件を起こして衝撃的な記事としてばら撒かれるとかしないと無理なんじゃ」
「ジャンヌダルクの伝記って読んだことある?」
「ない」
「そっか。私は好きだけど」
「かの有名なジャンヌナントカを知らない人間だってここにいるわけだし」
「世界ってこの地球の全人口を指してるわけじゃないのかも。世界って私が想定できる範囲の世界であって、そんなちっぽけな世界でさえも、ものにできない。何で生きているのかずっとわからない」
「あんたはきっと寂しいんじゃないの?」
「帰る家があって、それなりに友達もいて、学ぶ場も用意されていて。当たり前として見過ごされてしまうレベルかもしれないけど、すごく幸せなことだってわかってるの。これでいて、不幸を気取るのは傲慢だって。でも、いつもどこか満たされない。それは、誰も私を見ていないから」
「呆れる。それって本当は誰かに愛されたいとか認められたいとか思っているくせに、自分を測られるのが怖いから惰性で生きているふりをしているみたいに見えるな。揺るぎない本気の姿でぶつかっていって、玉砕したら立っていられなそうだから。いつもどこまでもわかったふりをして、言い訳ばかりして逃げているとしたら、あんたは天上人にでもなったつもりか?って問いたくなるよ」
「そうかもしれない。容姿の美醜とか足の速さとか頭の良さとか自分を形成するものが項目として無意識に点数化されてしまっている気がしてる。じゃあそれを何かのきっかけで全て失ったら?それでも愛してくれる人っているのかな。私にはいなかったから空っぽになっちゃったんだよね。アトピーの痕だって、部活で怪我をして速く走れなくなった足だって、交通事故でみんなより少し遅れてしまった頭だって、頑張って隠そうとか取り戻そうとか足掻くけど、全部私なのに。コンプレックスも私だよ。でも、みんなはさ、より優れていて手がかからない子の方が好きだから」
「この世って本当に残酷だな。見えないところで抱えている苦悩なんて他人からしたら知ったこっちゃない。そして説明なんて求められていない。少しでも他人を羨めば努力しろと言われる。個性っていう言葉の便利さは、ある意味恐ろしささえ感じるよ。本当にみんな違ってみんな良いなら、優劣なんかつかないはずなのに。でも、あんたは他人に認められるために生きてるのか?本当に好きなことをしてるのか?他人に依存した自己肯定感なんて一瞬で砕けるんだよ。それでも誰かの評価にまとわりついて生きていたいのか?指図されて動いている人間よりも自分の意思で伸び伸びとしている人間の方が結果的に印象に残る。それだけの違いだよ。後者は他人から認められようとしているわけじゃなくて、まずは自分が認めた自分を謳歌しているから鮮烈に映るんだよ」
「私はずっと苦しかった。でも、こんな話を身の回りの人間にはしないでしょ。君と話して、地上に芽を出して、太陽の光を浴びたり、自分好みの花をつけたりしてみたいなあ。だけど、リハビリは少し必要かも。ねえ、私の松葉杖になってよ。今の私じゃ重症すぎて、自分の足で歩き出すには時間がかかると思うから。しばらくの間…なんて言ったら良いんだろう…戦友?この理不尽な世界を生き延びるために、私の戦友になってくれませんか?」
「いきなり補助輪なしでチャリを飛ばそうとしている奴なんて危なっかしくても見てられないな。今この瞬間に知り合った相手だとしても。少し話しただけだけど、あんたの思考はいきなり完成系に飛躍しようとする粗削りさと、全てをなぎ倒していきそうな突飛さを感じる。たかだか十五年しか生きていない分際でそんな大層なものを作り上げられる方がイカれてんだよ」
「君も十五年しか生きてないでしょ」
「そうじゃないんだ。俺はずっとこの姿のままなんだよ。だからずっとひとりぼっちだし死ねないんだ」
「え?」
「だからどう死にたいのか聞いてみた。俺だって刹那に生きてみたかった。でも無限に命が続いてしまうから、その瞬間に懸ける価値がないんだ。死は美しいよ。誰しも未知だから恐怖を感じるかもしれないけど、俺はずっと憧れてる」
「そうなんだ。私はとんだ贅沢品をこしらえたみたいね」
「戦友ができて嬉しいよ。あんたはどんどん成長していって、俺は置いてけぼりだけど。俺のこと忘れないほしいな。死ねなくても、せめて爪痕は残してもいいよな?」
「私が成長して年老いたとしても色んな話を君にするよ。君が見たことない景色も私が見せてあげることだってできる。でも君って英語はずっと苦手なんだね」
「あれは何回やっても理解できない。何回でもできると思ってしまうせいもあるのかもな」
 コーンスープのコーンが引っかかって出てこない。顔を上に向けて、缶の底をコツコツと叩く。そのもどかしさに夢中になっていると、彼はいなくなっていた。

 十七時三十分…あれ…?ベッドの上…?塾の特別講習は…?いや、やばい。完全に寝てた。十八時からじゃん。遅刻する。
 私は間もなく跳ね起きると、家から飛び出して塾まで自転車を飛ばした。あれは夢だったのか。理解が追いつかないが、とにかく特別講習に間に合わせることだけに意識を向けて、ペダルを思い切り踏み込んだ。

 あの夢を見てから少し経つ。私は部活を辞めた。だからもうバナナの彼に会うことはない。彼はどうしているだろうか。でも、バナナを見る度に思い出す。黄色の戦友のことを。既に熟した君のことを。一年中会えるから寂しくないよ。

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