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韻文より普通に散文が好き

 床暖房でぬくぬくと身体を寝そべらせていた犬が、宅配のバイクに反応して「ワン」とひと吠えした。「そうやっていつも神経を尖らせてるから疲れちゃうんだよ」と何の気なしに自分の口からこぼれた言葉に少し驚いた。
 あるとき突然、失語症のような症状に見舞われた。しかし、本当の失語症はストレスが原因になることはほとんどないそうで、病気や事故の後遺症として見られるようだ。だから、単に疲れすぎていたのかもしれない。上手く言葉が出てこなかったり、他人の話が聞こえているのに内容が理解できなくなったり、文字がただの記号にしか見えなかったりする。それだけで済めば良かったのだが、コールセンターでアルバイトをしている以上、致命的だった。2年半近くも復唱し続けている口上を忘れ、呂律もろくに回らず、「調子が悪いのなら帰って休んだ方が良い」とまで言われる始末だった。周りは私のことを労るつもりで声をかけてくれたのだろうが、ミスが露骨に出ていることが情けなくて居た堪れなかった。体調に関して言えば、何かに支障をきたすほどでもなかったし、精神的な乱れが一連の不調を誘発しているのであれば、公私混同甚だしく、自己管理がなっていないと自責の念に駆られるばかりだった。今までこれほどのことはなかったし、むしろもっと苦しい状況のときにも業務だけはまっとうしていたはずだ。ぶつかり稽古に明け暮れていながら、今更イップスだとでも言うのだろうか。いつも決まって烏龍茶を買う自販機。その横にあるバイク屋で常に切り盛りしているおじさんを最近見かけない。
 時間もお金も特別余裕があるわけでもないのに、1人でカラオケボックスにこもって大声を出す頻度が増えた。次第に弱音を吐けなくなってきているのだ。弱音を吐けないという弱音を自己完結するための行動が増えた。昔から人前で泣くことは嫌いだし、それなりの緊張感を保っていれば、少しくらい我慢できた。多大なる失敗や迷惑は受け皿になってくれる存在があるうちにしておくべきだと思う。誰かを傷つけたくなるのは一種の甘えであるのだ。付き合いが長いというだけで時々周りをなじってしまうこともある。そんなコミュニケーションしか取れないのも考えものだ。自分をコンテンツとして差し出して、ぬるま湯に浸かっている方が楽な時期もあったが、大切なものをその場限りのオモチャとして使い捨てにされることが辛くなってきた。私にしか気づけないところで足を引っかけて、少しでも転けそうな素振りを見せると、意地汚い笑みを浮かべて満足げにしている。お陰様でずっと胸糞が悪い。こんなものの発露が反骨精神だなんて、そんな綺麗で大層なものでもない。他者を批判するということは、同時に自己を批判することであるのだから。それとは別に、過去のことをあまり語らなくなったというのは、膨大な時間を費やして決別できたということなのだろうか。少しでも人間としての尊厳を守ろうという生活ができるようになったということなのだろうか。
 有象無象に揉まれながら、ようやく開けた場所に抜け出して、大きく息を吸い込むことができたとき、コートに染みついた煙草の匂いに少しだけむせた。副流煙に巻かれたのは久しぶりのことだった。「中学生くらいのときよく聴いたよね」と友人と語り合ったバンドの曲をなんとなくリピートし続けていたら最寄り駅に着いていた。「己が醜さ恥じて髑髏を垂れ 名前より先にごめんなさいを口癖に 今日まで手合わせ生きてきたのに 馬鹿みたい 君を見てると」なんていくらなんでも荒削りにもほどがあるけれど、愛しの誰かに対して歌っているから異常性が際立っているだけで、そんな状況は割とよくあることだ。この曲のリリース日か何かに、たまたまラジオを聴いていて、そこそこの衝撃は受けたのだが、今考えてみると20代後半までその青さを維持して、自分本位に振り切った歌詞を書けるのはもはや尊敬に値する。ポケットの中で弄んでいた鍵を取り出して、自転車を解放してやる。ペダルを深く踏み込むと、ニットの編み目からスースーと皮膚を刺す気配が強まった。鼻の奥がツーンとして冷気が目に沁みる。今日は変な月だ。旬の林檎を少し齧ったような形で、かなり低い位置からこちらを見ていた。海の部分に蜜が詰まっているかのようで、自ずと唾液が分泌される。本当はこのまま身体を委ねたまま、際限なく漂っていたい。でも、もう帰らなくちゃ。迎え入れてくれる外灯が24時になって消えてしまう前に。もうここまで来ると門限を破る理由などない。破ってまで一緒にいたい相手とそんな時間までともにする義理もない。きっと今の私は、硝子の靴を落として歩きにくくなったら、もう片方も脱ぎ捨てて走るだろうし、誰かに拾ってもらうことなんて期待していない。それが、現実なのだから。
 先輩でも、後輩でも、友人でも、恋人でも、娘でも、姉でも、何者でもない私。その瞬間が最も心安らぐのは致し方ないことだ。何らかの立場が付随した状態でできることなんて高が知れている。アルバイト先の主任補佐が「役職だけ変わったけど給料はこれっぽっちも上がらないんだよ〜責任が多少重くなるだけで。でも役職に拘るのが社長の方針なんだって〜」と冗談めかしてぼやいているのを少し前に耳にした。多分本当にそんなものなのだろう。それでも誰かといたいと願ってしまうのは、未開の地が存在することを信じてやまないからだ。物事をそつなくこなせる方でもないし、飲み込みが早い方でもない。その腕っぷしで痛みに耐えながら、形作っていくことしか方法を知らないのである。
 まだまだ年の瀬とも言えないこんな時期に、韻文ばかり書かされて、散文の方が向いていると実感して、箸で食べるサラダパスタは啜るのが正解なのか、啜らないのが正解なのかわからないまま昼休みを終えようとしている。いつも年越し蕎麦を啜る前に、お腹がいっぱいになってしまう幸せな私の話である。

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