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心の切れ端〜お好きな曲を添えて〜

 海に行きたい。桜はまだ咲いていない。綺麗なものを見たい。今はとびきりはしゃぎたい気分ではない。でも一人でいたくない。静かにゆっくりとした時間を過ごしたい。ここ数日、キリンジのエイリアンズばかり聴いてしまう。そういう温度感なのか先日の関ジャムで紹介されていたからかわからない。あの曲は私が生まれた年にリリースされたらしい。親近感みたいなものはそういう風に簡単に芽生える。でも正直なところ、キリンジの曲でちゃんと聴いたことがあるのはこの一曲のみだ。きっともっと掘り下げていけば、他にも素敵な曲に巡り逢えるだろう。その可能性を十分にわかっていながらも、まだその一曲を味わい尽くしていないと次の段階に進む気にはなれない。これは昔からの癖で腰の重い人間なのだ。一度しっくり来ると同じ曲を延々とリピートし続ける。だから細胞で記憶することは可能だ。でもすぐにカラオケで歌えるかと言われたらまた別の問題。意識的に歌詞やメロディーをなぞりながら聴くのと、ただ鼓膜を振動させているのは違うことだから。少し油断すると曲の空気感をすぐに忘れてしまう。逆に初めの段階でアルバム単位で流し聴きしていれば、そこに収録されている曲くらいは満遍なく愛せたかもしれない。eillのSPOTLIGHTやMaison book girlの海と宇宙の子供たちはその類だ。でもそうなると収録されている順に聴かないとむず痒さに見舞われるだろう。セントチヒロ・チッチですら「これでも彼氏は二人まで」担当なのだから私ごときがそんな器用に立ち回れるはずもない。どちらにしろ本当に落ち着ける状態は時間をかけないと手に入らないし、それから逸脱して新しいものを取り入れようとするのにはエネルギーが必要なのだ。だから私には好きなアーティストというものが片手ほどしか存在しない。その代わりに数曲だけかじったアーティストはたくさんいる。「広くて浅いやつもうGood night」ってSuchmosにも言われてしまうかも。だったら狭くて深いやつはGood morningなのかとかふざけたことを考えてしまう。私の文章で英語表記が出てくるのも珍しい。人間関係の構築の仕方も割とそんな感じなのかもしれない。ある程度の関係を築くことはできてもその先を目指すのは容易なことではなく、そこに到達するのはひと握り。当たり前のことだけど価値観はみんな違っていて、私の中での物差しで測れるものの方が少なくて、それでも倫理というものは存在していて。誰かの拠り所になるということは難しい。パズルのピースのようにぴったりとコミットするということは可能なのだろうか。食べ物の好き嫌いが多い人は人の好き嫌いも激しいらしい。私はパクチーが苦手だ。でも頑張れば食べられる。そういうものだ。結局物事に対する態度は対象が何であっても大きく違わないのかもしれない。
 今日は本当はバイトがあったのに誰かの不都合で交代を申し出られて、特に断る理由もなかったのでそのまま了承した。急に何の予定もなくなってしまったので、ベッドに潜って臓器を動かしているだけの日だった。最近は細切れの睡眠しかできなかったのに、何故か深く深く眠りに落ちてこのまま目覚めなくても良いんじゃないかと思えるくらい深く眠った。そろそろ就職などについても考えなくてはならない時期に差し掛かっている。とりあえず二十年は生きていて、もうすぐ二十一年を迎えるが今のところ成功体験があまり多くない。それだけ挑戦しているということだと言いたいところだが、燻ってばかりだ。叶えたい夢がないというよりは、身の程を弁えて夢を持たないようにしてしまう。努力の方向性を間違えていたことに答え合わせをしてから気づくので、大体は後の祭りだ。傷つくことに慣れてしまっても進んで傷つきたいと思える性質は持ち合わせていない。本当はナンバーワンになりたいと思っていても同じ土俵で勝ち抜ける自信のなさでオンリーワンに逃げてしまう。世界に一つだけの花ではそれが尊重されているがオンリーワンだけで生きていくのはしんどいものがある。オンリーワンが誰にも刺さらなかったらどうしてくれるんだよ。それはただの孤独だよ。「仕事は賃金を稼ぐためのものとして割り切って働きたいから職種に拘りがない」というのは半分本音で半分保険だ。柔軟性があるような雰囲気を纏って、そのくらいの心持ちでいる方が気楽に生きられそうだから。でもなんだか今日は「誰かを幸せにする仕事がしたい!」という気分だった。偽善でも何でもなく本気でそう思ったので恐らく正気ではない。しかし実際のところ自分の幸せより他人の幸せの方が力まずに純粋に喜べる。得たものを失う恐怖感が付き纏うか否かの違いだ。そして幸せそうな人を見て嫌な気持ちになることはあまりないのでそう思ったのかもしれない。きちんと人と関わり合って連動している感覚を持ちたい。この頃の生活は人との関わりが断絶に近くて、当たり前のような充足感が眩しい。相互関係が成り立つというのは尊いことだ。具体的なプランはまだなくともその気持ちを大切にした方が良いのかもしれない。夜に大学の友人とそんな感じのことを電話で話した。そしてYouTuber事情に詳しくないけど、ふくれなが長年交際したMくんと別れても強く生きている様が人間としてプロ意識が高すぎるとか、マツケンサンバ及びマツケンマハラジャが大人たちが二徹して考えた世界観だとか好き勝手喋った。ここだけの話、そのMVや映像を見ていたら全然泣けた。
 私は単に文章を書くのが好きで気が向いたときにここに投稿することもある。でもそれは同時に内面を晒すことであって、誰に読まれるかもわからない状態で手放しに感情を吐露することもある。別に恥ずかしいとも思っていないから綴るわけだが、やはりこのアグレッシブさが安っぽく見えてしまうのかもしれないというのが悩みの種だ。かなり良く言えば天真爛漫くらいに収まりそうだが、ミステリアスさや緊張感を欠いた品性のない人間に映っていても致し方ない。周りの警戒こそ解くことができても気軽な存在という印象が残るだけだ。どこのコミュニティにいても何故か目立ってしまって、運が良ければ慕われるし、悪ければ迫害される。表立って何かをすること自体は苦ではないため、自動的にそういう役割が回ってきて体を張ることになる。切り込み隊長である。でもそうなると妙な逞しさだけが一人歩きして、みんなから頼りにされているようで、誰かのかけがえのない存在になれているわけではない。一人でも生きていけるような強さは時にネックにしかならない。ハロプロの曲でもそんな曲があった気がする。誰にでも無難に接することができるだけで、最終的に選ばれる側の人間にはなれないことが多いのだ。だから女王蜂のIntroductionが異常に刺さる。そしてジェニーハイが歌うような便利なロンリーより不便な可愛げが欲しくなってしまう。自己表現が苦手な人からは羨ましがられるので、一長一短でしかないだろう。あまりに贅沢な悩みだ。悲しみの終着点は歓びへの執着らしい。サカナクションのこの曲は高校の卒業制作で引用したので思い出深い。制服というワードも入っているしね。しかし奥ゆかしさのある人の方が本当の意味で愛されるのではないかと考えてしまう。そして宇多田ヒカルのCan You Keep A Secret?みたいな気持ちになるのだ。「近づきたいよ 君の理想に」って一体誰の理想に?どこに迎合していけば良いかもわからない。これからは御社かな。そうして結局一周するのが常である。山手線みたいな思考回路で生きているので、途中下車しつつも気負わずに違う景色も見てみたいものである。

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