見出し画像

Cafe Carpe diem•••eigaとongaku. 12

海辺の小さな町にあるカフェ、Cafe Carpe diem へようこそ•••



Chopin
マズルカ  イ短調op17-4


ショパンの心臓


もう、かれこれ十年近く前になりますが•••。
 
文化使節として、訪れた、ポーランドで、心に残る、出来事が幾つかありました。
 
 ワルシャワに着いた初日は、時差ボケの頭で、皆さんのように観光する気にもなれず、ポーランド人のガイドさんに教えて頂いた、ホテル近くのカフェで、同室の人とレストランにとっては時間外の軽食を取り、ホテル近くの新しいショッピング•モールで、買い物をしました。

 そこのサングラス売り場の店員さんから、私たちが日本人だとわかると、セーラームンのテーマ曲のアカペラを披露して下さり、まだ肌寒いワルシャワで着るには少し早い、春物のジャケットを、美貌の黒髪マダムに勧められ、英語の通じない、ジェラート屋さんのお姉さんから、ポーランドでジェラート?と思いながらも、何とか希望のものを頂き、ホテルの前にある古びた毛皮のお店をチラッと見ただけで、夕食もそこそこに寝てしまいました。
 
 翌朝早くから、郊外にある、貴族の狩猟の館での会があり、終わってから、その日もやはり、時差ぼけで、食事もそこそこに寝てしまい、お向かいは、ゲットー、お隣は、シナゴーグ、その先は教会、そして、その先には、スターリン時代に建てられた文化科学宮殿というホテルの立地環境の中で、一人毎日、朝早くから、滞在中同行の皆さんの無事を祈り、般若心経の写経をしていました。
 

旧ゲットー跡の壁


 三日目になって、先輩諸氏だけが、大使館のレセプションに出かけられている間に、やっと、観光の気分にはなったのですが・・・。

 ガイドさん付きの贅沢な気分とは裏腹に、ワルシャワに着いた途端から、ワルシャワ蜂起や侵略の歴史の話や、二次大戦のドイツが誰もいない旧市街のお城に打ち込んだ一万発の砲弾の話に、胸が痛くなりました。
 因みに、ガイドさんによると、ゲシュタポを「秘密警察」と訳し、名付けたのは、当時の日本の新聞社だったそうです。

ワルシャワ蜂起の像

 前日のカフェまでの道は、社会主義時代の名残りで、通りから一歩入ると、労働者向けの高層アパートや、舗装されていない、日本の昭和三十年代の道路の様な、砂利道がづづいていて•••。
 
 ただ、ワルシャワの街には、至る所に、子供の頃から好きだった、ショパンへのオマージュが感じられ、特に、生家や博物館を訪れた時には、後ろからショパンがついてきている様な気がして、何回もふりかえってみたりしたのです。


ショパンの生家


 
 ショパンの心臓を、遺言通りに、彼のお姉さんが、パリから持ち帰って、教会に安置した、聖十字架教会の前まで来た時には、こちらの胸まで痛くなってしまいました。
 
 と言うのも、子供の頃から、タイトルに上げた、マズルカ イ短調17-4を聴くたびに、いえ、ショパンの作品を耳にするたびに、何故か、胸が苦しくなってしまうのです。

その旋律の,悲しい美しさの故に・・・。
 
 ショパンのミュージアムでも、ワルシャワのショパンが通ったカフェや文房具や本を買うために立ち寄ったであろう場所や、心臓が安置してある聖十字架教会、ワジェンキ公園の木々の中でも、いつもショパンが一緒でした。
 
 翌日の昼食で、レストランまでの移動中、兵隊さん達が休憩中の所に行き合いました。
 その中にいた、軍服姿の人に、写真を撮ってもいい?と、聴くと、ちょっと待って、と言って、ワゴン車にいた仲間を大勢連れてきてくれて、しかも、脱いでいた軍服の上着とブーツを履き直して、整列して、中隊長さんの掛け声で、行進までしてくれました。


ポーランドの兵隊さん


 
 同行の人が、「いち、いち、イケメン!」と、叫ぶほど、壮観なカッケー、ショットが撮れました。
 
 英文学作品の中にある様に、ポーランドの人は、男性も女性も、いち、いち•••美男美女なんです。

 そんなこんなで、一番心に残ったのは、全員で最終日の晩餐をした、レストランでの出来事でした。

 やはり、ショパンのBGMが流れる、著名な美術館の様な、PG(頭文字)と言う名のレストランでした。

 ポーランドのレストランでは、羊の脂で揚げた、ニョッキの臭いがして、嗅覚の鋭い私は、めげていました。
 
しかし、そこだけは、臭わなかったのです。
そして、私が期待していたのは、そこの蟹のスープでした。

 ところが、その日は、カニが入手出来なかったのか、人数が多くて確保出来なかったのか•••なかったのです。

 美人の給仕してくれた、女性に聞くと、どうやら、調理場が気を利かせて下さり、伝統的な、ヴァージュというハンガリー風のスープになった様なのです。

 私は、ガッカリしたのとポーランドに来てからのレストランの料理の一人前の量に食傷してしまい、他の料理に、手をつける気になれなくて、サラダとパン以外は食べずにいたら、隣の人から、「頂いてもいいですか?」と、言われ、料理が無駄にならずに良かったと、ほっとしていました。
 
別腹なのでデザートは、頂きました•••。笑

 淑女のお手本のような、親しくして頂いている先輩の方から、皆がワインをご馳走頂き、宴も竹縄の頃、お化粧室が、個室の前を通らなくてはいけない造りになっていて、化粧室の帰りに気がついたのですが、そこに、二人の紳士が、静かに、コニャックの入ったグラスを傾けていらしたのです。
 
 通りすがりに、紳士の一人と目があったので、行きの飛行機機の中で、覚えたての、俄仕込みのポーランド語で、「Dobry wieczor.」(こんばんわ)と、言うと、二人とも、満面の笑顔で、グラスをかかげて、同じ言葉を返して下さいました。
 
 改めて、薄暗い室内を良く見てみると、そのレストラン内には、嘗てのハプスブルク家の血を引いた王族の肖像画があったり、クラシカルな映画に出てきそうな、素敵な内装で、入り口には、美術館にある様な、彫刻が・・・。
 

レストランPG
レストラン入口の彫刻


 帰り際に、その紳士達のテーブル近くを通る時、今度は、彼らから、
「Spotkajmy sie pou[nownie!」(また、お会いしましょう。)と、言われました。
 
 どうやら、先程の女性が、あのご一行は?と、紳士に聞かれ、文化使節の人達だと伝えて下さり、長い侵略の歴史の中にあって、遠い国から、国境を越え文化交流と親睦の為、わざわざ来てくれるとは・・・と、感心して下さった様なのです。

その言葉は、晩餐以上の、この上ない、ご馳走でした•••。


 さて、今の私たちが、平和な中で暮らせているのは、嘗て、命をかけて国を守って下さった人達がいらしたからで、ポーランドの人々は、その事を長い歴史の中で深く思いながら、生きてらして、ショパンも同じ様に、祖国の平和を願い、異邦にて無念の思いの中、果てたのでしょう。
 
 ポーランドでは、至る所で、露店のお花屋さんを見かけましたが、何時も、鎮魂の思いと平和への願いを込めて、お花を求める人が多いと、ガイドさんからは聞きました。 
 
 帰国後は、私も、ポーランドの方々の様に、お花を飾る時は、平和と亡くなった方々への鎮魂を祈る様になりました。 
 
 そして、ショパンにも•••

最後に、ピアノ•コンチェルト第一番を聴きながら、ショパンへのオマージュを、捧げたいと思います。

本日も、Cafe Carpe diem へお越し頂きまして、感謝いたします。

またの、お越しを、お待ち申し上げております。

それでは、また•••” a bientot! “

                 Mio



 
 

 


 



 
 






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?