創価と仏像と私

創価と仏像と私〜♫

愛するあなたのため〜♫

毎日磨いていたいからー♫

は、いいとして。ちょっと仏像の話。

日蓮大聖人はあらゆる御書で久成釈尊が本尊だと書いてるよね。例えば、

報恩抄
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

妙法比丘尼御返事
「教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども」

忘持経事
「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し」

真間釈迦仏御供養逐状
「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて」

四菩薩造立抄
「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき」

開目抄
「此の過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり」
「華厳経の台上十方阿含経の小釈迦方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを」

法華取要抄
「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来阿弥陀如来薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮ぶ是なり」

聖密房御書
「久遠実成は一切の仏の本地譬へば大海は久遠実成魚鳥は千二百余尊なり」とある。

でもその一方で、仏像を本尊としなくていいと書いてる御書、そう、本尊問答抄があるのだ。

この御書の背景は、兄弟子の浄顕房が、身は天台宗の清澄寺にあったものの、心は深く大聖人に帰依し、法義について指導を求めていた。その浄顕房に対して、本尊について指導をされたお手紙。

なので、題目と仏像で比較しているわけではなく、天台信仰と題目とを比較している解釈にも取れるんじゃないかと思う。(私は)

「法華経の題目を以て本尊とすべし」

とあるが、この御文だけで仏像を否定することはできない。あまりに情報不足で、かつ、他の御書で仏像を否定しているものはない。

逆に、四菩薩造立抄で
「今末法に入ぬれば尤も仏の金言の如きんば、造るべき時なれば本仏本脇士造り奉るべき時なり。当時は其の時に相当たれば、地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし」

「問うて云はく、四菩薩を造立すべき証文之有りや。答へて云はく、涌出品に云はく「四導師有り。一をば上行と名づけ、二をば無辺行と名づけ、三をば浄行と名づけ、四をば安立行と名づく」

とあり、大聖人が身延に入って5年たったときでも、富木常忍に対して仏像の造立を指導していたことがわかる。

本尊問答抄を渡した「浄顕房」、また義浄房に"報恩抄"では、

「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」

と、"教主釈尊を本尊とすべし"とはっきり書いている。

"法華経の題目であって釈尊・仏像ではない"
という解釈は、ここからは読み取れない。

また、信徒が仏像造立したことを大聖人は賞賛している。

真間釈迦仏御供養遂状
「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、『欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来』は是なり」

四条金吾釈迦仏供養事
「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云(中略)されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし(中略)此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ」

日眼女造立釈迦仏供養事
「三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女(中略)一切の女人釈迦仏を造り奉れば現在には日日・月月の大小の難を払ひ後生には必ず仏になるべし(中略)今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」

およよ。仏像造立って、めっちゃ良いことやん。
いや、待てよ。日興上人が仏像はダメだと言ってるじゃないか。一体仏の造立は謗法だと波木井実長の行動から破折している。

ところがどっこい。

日興上人関連の真筆なし書物は、実際の歴史と違うことが多い。

教えてもらったり、調べたりしたことを上げてみるね↓


①仏像安置を日蓮大聖人は認めていた。
②日蓮大聖人の遺品で、釈迦仏像が残っていた。
③日興上人の遺品である、弟子文帳には、波木井実長の名前が残っていた。
④日興上人は久遠寺の別当ではなかった。
⑤五老僧が退転したという話だが、五人所破抄が書かれたときには、すでに五老僧は歴史上、亡くなっている。

⑥日興上人が富士に移ってからも、日郎上人と交流があった。
「日興上人御伝草案」では、日興上人は日郎上人を賛嘆される内容が書かれている。

⑦日持上人は日蓮大聖人13回忌後に「一天四海広宣流布]「一天四海皆帰妙法」という日蓮の教えを実践すべく北海道から中国に渡り(46歳のとき)モンゴルまで弘教に行った。

日持のものと伝える遺品が中国北京西北の宣化で発見され、東大、東北大の研究者によって科学的測定がなされ、年代が明らかになり、その結果、日持の海外布教がほぼ間違いないと判り、これが我が国初の海外伝道とされている。(すごい)

⑧五老僧が如法経、一日経を修行として実行していたことは、大聖人の御文を基準にする限りは全く問題ない。

富士一跡門徒存知事には
「一、五人一同に云く、如法経を勤行し、之を書写し、供養す、仍つて在在所所に法華三昧または一日経を行ず。日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず。又謗法の代には行ずべからず。之に依つて日興と五人と堅く以て不和なり。」

とあるが、 
法蓮抄
「是は書写の功徳なり、五種法師の中には書写は最下の功徳なり、何に況や読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり」

曾谷入道殿御返事
「方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし」

月水御書
「別に書き出してもあそばし候べく候」

と、書写・読誦を勧めている。


大聖人が「末法衆生成仏の為の行法は題目受持に限る」旨を書いているのは、
あくまでも「末法に於ける成仏のための根本的行法(正行)はお題目の信唱である」事を強調しているだけで、"書写や読誦を禁じる"の意味ではなく、読誦・書写を根本的な正行と思ってはいけないとのご指南だ。


⑨天台沙門の名乗りについて
五人所破抄では、日興上人以外の五老僧は「天台沙門(天台僧)」であると述べ、日興上人は「(日蓮は)上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」と述べ決して天台沙門ではないという立ち位置があり、違いがある事を訴えている。

でも実際は、日興上人自ら写本の「立正安国論」(玉沢妙法寺蔵)には「天台沙門日蓮勘之」と書いている。
また千葉県市川市中山・法華経寺蔵の「日高写本」、千葉県香取郡多古町島・正覚寺蔵の「日祐写本」、千葉県香取郡多古町南中・(峯)妙興寺蔵の「日弁写本」

の計三本に「天台沙門日蓮」との名乗りが確認されているので、この書き方は実際に用いておられたよう。

つまり、疑義ある書物以外からは、五老僧が退転した、謗法をしたという記述は見つからず(あったら教えて)

日興上人の仏像否定も信憑性が低いことになる。

で、もし創価の"五老僧は退転した"という教えが間違っているのであれば、命をかけて広宣流布された方々に、恩を仇で返すようなものになるのだ。

これはマジでやばぁい。偏見を捨てて真剣に考えないといけないよ。

日興上人の真筆なし書物は、他の御書や歴史と整合性が取れず、かなり疑義あるものになってしまう。ちなみに「本尊問答抄」も真蹟がなく、日興写本があるのみ。

話は戻るが、もし実際に、日興上人が波木井実長の釈迦仏造立を制止したとしても、そこから仏像造立制止、曼荼羅のみ本尊とすることまで深読みするのは困難。

波木井実長がどのような仏像を造立しようとしたのかも考えなければいけないから。

日蓮大聖人はあくまでも久成釈尊を本尊とせよと、何度もおっしゃっている。

原殿御返事では
「久遠実成の如来の木像最前に破れ候」

とあり、大聖人がご教示した仏像以外の造立をしようとし(意味あってる?)

それで止められた可能性も高く、仏像の安置自体を否定する根拠とはならない。

原殿御返事の最後の文に
「御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。」

"四菩薩を伴った仏像の造立ができるまでは、日蓮御筆の紙幅の曼荼羅を安置するように"

と書かれていて、むしろ四菩薩の脇士を伴う久成仏であれば、それは曼荼羅と同様であることがわかる。


日寛上人の書物からは、仏像造立を日蓮大聖人が称賛されたのは、"文底深秘の法門を説かれる前段階として"とか、"阿弥陀仏信仰が弘まっていたため"というような説明をしているが、その解釈が御書のどこからなのかの理由はなく、根拠は一切載っていない。

日蓮大聖人は温情あふれる方ではあったと思うが、教義に関しては大変厳しい方だと見ている。

善無畏三蔵抄
「仮令強言なれども人をたすくれば実語・輭語なるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり」

ここから、教義に対する厳しさが垣間見える。信徒に対して、しかも本尊について方便的な教示をしたという解釈は取りにくく、ましてや信心の浅い人間ではなく、富木常忍や四条金吾という、身命を賭して大聖人を求めた強信の方たちに「妥協的認可」や「方便的な本尊」を勧めることは考えられるのか?

中山法華経寺現存の富木日常上人の常修院本尊聖教録からは「釈迦仏立像並四菩薩  厨子御入」とあり、中山日祐上人の『両寺(法華・本妙)本尊聖教録』を見ると、本妙寺の部に「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養  厨子御入」

と記録しているので、日蓮大聖人が開眼供養した一尊四士像が本妙寺に奉安されていることが分かる。

観心本尊抄では、
「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて"此の仏像"出現せしむ可きか」とある。

創価では、仏像を「仏の形」と解釈しているが、

「末法に入って、本化上行菩薩を脇士に添えた釈尊像を本尊として出現させるべきである」
と"仏像"を本尊として奉安して良いと教示している内容にも充分に捉えられる。

与波木井書
「仏は上行無辺行浄行安立行の脇士を造り副えまいらせて、久成の釈迦に造立しまいらせ給うべし」

妙法比丘尼御返事
「教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども」

忘持経事
「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し」

とあるので、立像釈尊を本尊として礼拝していた事がわかる。

ただし、身延山においては弟子信徒に曼荼羅を御本尊として授与もしていたので、
今の日蓮宗のように、曼荼羅を掲げ、仏像を一緒にご安置した御宝前であったかもしれないし、当時、どのようにして安置していたかまでは、現在の研究でも詳しくわかっていないよう。


ふと、開眼供養について思ったけど、

創価学会は、開眼供養を否定していて、その理由が神秘的なものだからだと聞いた。

ところが、日蓮大聖人が開眼供養した仏像が実際にある。御書にも信徒が仏像を造立したあと開眼供養するような内容もあるので、

じゃあ、仏像にだけ開眼供養が必要なのか。。と今まで思っていた。

でも、よくよく考えると、曼荼羅を書くのは日蓮大聖人ご自身なんだから、書かれたときに一緒に開眼供養はするよな。

でも、仏像は信徒が造立したものだから、開眼供養は別途で必要になってくる。
あー、だから仏像への開眼供養の御文しかないのか。

と、勝手に想像している。正しいかは知らん。

ほんで、創価学会は、よく日蓮宗に対して仏像安置にケチつけたり、謗法だとか言ってるけど、

いやいや、考えてみてみ?

昔、学会は日顕上人の曼荼羅を消したでしょ。それこそどうなのよ。

曼荼羅の行方をいろんな人に確認したけど、わかんなくて東京の総本部に聞いた。

そしたら「この件については"不問にしましょう"(問わない)となっていますので、本部にまかせておいてください。」

という答えで、曼荼羅が残っているか、いないかすらも教えてはもらえなかった。

どこかに保存しているなら、場所は言わないにしても「ありますよ」と答えるだろうし、日蓮正宗はお寺には戻ってないと言ってるから、処分した可能性が高い。


日蓮宗に対して、仏像安置を厳しく見るのであれば、曼荼羅の存在を消した創価学会の本部に対して、より追求するのが筋だと思う。学会員にとっては、その出来事のほうが重大なことじゃん。


自分に甘く、他人に厳しく。。

それが日蓮仏法なんか??


で、創価学会の今後の使命について。

現代の日本でも、あらゆる仏像が奉られているが、それは日蓮大聖人のご教示に反するもの。
久成釈尊と四菩薩の仏像が、末法において正しい形態なら、それこそ他宗に訴えるべきでは?

普段から使わない建物ばっかり作って、無駄なことするより、御文通りの仏像を作って、"これが日蓮仏法だ!"と示していくのも大事な広宣流布だと思う。

これを書いた私に、学会員は「謗法だ」と思うんだろうね。そう思った人は、DMかリプくれたら嬉しいな。

もっと語り合おうぜ!仏像のこと😆


終わり。

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