亀さんに会いに行く理由

外来種の亀の住処 あるいは避難所


多分誰かに飼われていたであろう緑亀が池に放たれ、そこで暮らしている。

それも一体何匹居るか解らない。1、2、3…いっぱい!という数え方しかできない位。

外来種の緑亀以外の、日本固有種の亀も多分居るだろうが、とにかく緑亀が多いのだ。
そんな池を知っている。

池の周りの木々や季節の花を楽しみつつ、必ず覗き込む池には、沢山の亀さんと鯉、時には鴨が居る。他にも色々と、烏や鳩、昆虫などの生き物達が居るが、この場所で目につく生き物は亀、鯉、鴨 

鴨は 

私を認識していても、寄って来る事はない。
後はたまに寄って来る猫さんも居る。。


鯉は
私を認識して、すぅっと素通りする事が多い。


でも亀さん達は、寄って来る。

誰かに飼われていた記憶なのか、誰かが餌を与えているのか。だから、餌を

ねだりに来るのかも知れない。

しかし、私は餌を与えていない。毎日顔を出す訳でもない。その日出会う亀が、前回会った亀とも限らないし、私に亀の個体識別が出来る訳でもない。なのに寄って来る亀達。

大きな個体も、小さな個体も様々居て、その日その時により、いつも違う個体と会っているとは思う。

面白いのは、亀達がちゃんと池の中から人を見ていること。

急な動作をすると水中に逃げるのに、静かにしていると、近づいて来てはじっと見上げている。時には、池の石垣を登ろうとしたりして、池から出たいのかなと思う。観察している私と、観察されている私が生まれる時間だ。

彼らにとっては、多分美味しいものをくれるかも知れない人だが、くれなくても近づきたがる亀達の姿が、何だかとても、いじらしい。

寄って来る動物と、ご飯でつながる関係でない場合、私はもどかしさと喜びを覚える。

何か言われている気がするのに、解らないとか、ご飯をあげて喜ばせたいけれどできないもどかしさ。

そして、利害関係無しに、私に興味を示す動物の存在が嬉しい。私の社会的な立場も、性格も何も気にしないで、ただの命としての私に、関心を寄せている様で。


人は他の動物と、食物連鎖を超えた関係を持つことを、なぜかしやすい生き物だと思う。それも、自分の行動範囲に入った様々な生き物と、食べる食べない以外の関係を持つ。
情を交わす対象にする。

人が行けない空を飛ぶ鳥たちも、水中に棲まう生き物も、出会ったら皆と仲良くしたくなる。人の行動の面白さだと思う。

そして私は、自分が飼い主ではない場合、私に興味を示す動物ともっと仲良くしたいと思う。「ご飯」という、ある種の契約が結ばれていないから。家族としてのペットではない関係。その関係も面白いと思う。住処を共有しないが、ささやかな交流がある関係。
私にとってそれが、とりあえず今は池の亀達。

「仲良く」というのがどういう行動かと言われても、上手い答えはない。
ただ、一緒にその場でその時を穏やかに過ごしたいと思う。その行動を見つめるだけでも楽しい。そう、人ではない生物と一緒に過ごすことが、私にとって喜ばしいことなのだ。
言語の交流はできないが、お互いを快いと感じていたい。

…という感情を人に対しても覚えるのに、動物と居るときより上手くいかないのは、実に不思議だ。
きっと、色々なものを身に纏い過ぎていたり、見ているものを脚色しているのかも知れない。

何があっても、池には亀が居る。
その妙な安心感が、池の端に私を立ち止まらせる。
そして、その亀達を何となく「亀さん」と呼びたくなる。もしかしたら、私より長生きする生命体。

声の無い交流が、もどかしくも心地よい。そして、いつかもっと亀さん達と近づきたい。あ、この亀さんこの前会った!とか、こんな個性があると認識できたら嬉しいと。できたら亀さんと挨拶したいとか…。
あの数の亀さん達を識別できたら、もうドリトル先生レベルだし、私が生きている間には、まず難しいとは承知だ。

亀さんと交流…浦島太郎じゃあるまいし、とも思うが、そんなお伽話の一片をリアルにしたくなる。
それを現実逃避と呼んだとしても。
想いの何処かで、地球の楽園とか呼ばれる世界…そんなことを期待している自分が居る。正直なところ曖昧で、果てしないなぁ、とも。

とりあえずそのうちにまた、亀さんに会いに行こう。
ただ、会いたいと言う素直な想いのままに。

そして、できたら元気いっぱいなこの亀さんにもう一度会いたいな。

よろしくお願いいたします。