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子供の脳出血 息子の闘病記 #22 高校生活、そして・・

晴れて高校生になった息子は、病気とも縁が切れたと思っていたので、なんでもできるということにタガが外れたようにも思いました。
「部活やるの?」
「うん。今ね何やろうかいろいろみてるんだよ」
しばらくして、
「アメフト部にする」といった。
「はああ???何言ってるの??
 死にかけたんだよ?アメフト?ほかにもあるでしょ。部活なんて。」と私。夫も「あいつ死にかけたのに、何言ってるんだ?」という。

親の心配をよそに、アメフト部に入ると決めてしまった。
私はこっそり学校へ行き、アメフト部の練習を見てきた。だってテレビで見るような激しいスポーツをするなんて考えられない。

ところが・・・・うん?
この程度?・・・そうなんです。あまりに弱いチームだったので、これならできるかも・・・なんて思ってしまいました。真面目にやっているのですが、ちょっとこれでは・・という感じでした。
結果的にアメフト部への入部を認め、私立の男子校ですから女子マネージャーなどというかわいい存在がないため、お母さんたちが応援に駆り出されるのです。一番記憶に残っているのは日大付属鶴ケ丘との試合。
向こうには東京都代表が数名いました。あの当時日大フェニックスは圧倒的な強さを誇っていました。彼らが日大に行くんだよね~なんて思ってみていたのです。あの試合で1回だけタッチダウンを決めました。
2年間の試合の応援であの時だけです。たった1回のタッチダウン。
しかも日大付属相手に!!

そもそもなぜこんなに弱いのに日大付属と同じリーグなんだろう・・・
どうも昔は強い時代があったそうです。なるほどね。
それでも、都立高校のアメフト部、三田高校や西高校などとの練習試合、麻布や城北との練習試合などいろいろ楽しませてもらいました。

にしてもです。死にかけた息子がアメフトをやっていることに、不安がないわけではありません。しかも、やることなすこと・・・おかしなことが多く、今でも同級生に学年でも10本の指に入る変人と言われています。
文化祭の夜、学校から電話がかかってきました。
「部活対抗で激辛早食い競争をやったのですが、具合が悪くなったので迎えに来てください」とのこと。
「早食い???家で一番遅いのに?」食べることが遅いのは子供のころからでした。その子が早食い競争???
激辛のせいで腹を壊したって・・・馬鹿め!!
夜9時、学校に迎えに行き先生にご挨拶とお詫び・・・

そういう息子なので、卒業式の時は各先生に「お世話になりました」とご挨拶。すると「ああ~~お世話しました。あっはっは~」です。

こんなふうに楽しく3年間過ごした息子は、「医学部に行きたい」というので、「うちは私立は無理。国公立だけだよ。地方にはいかせない。」この条件付きで受験時期に入りました。これがどんな無謀な条件なのか・・・
理系なら何でもいいと思っていたのですが、医学部となると話が違います。

通える医学部。東大、東京医科歯科、千葉大、横浜市立しかない。
無謀でしたね。2浪目に2次試験を受けることが出来たのですが、結果的にダメだった。本人がもう一回受けるというので仕方がないと思った次第です。
学校からの指導は、とにかく医学部ならば地方受験をするようにと言われていました。確かに琉球大、鳥取大、大分大、島根大、そして旭川医科大など候補としてあげられました。・・・ですよね。全部遠い。
私はすぐに行けないところに息子を一人で送ることは怖くてできなかった。
彼が何も言わずに頑張ってくれたのも、そのことをわかっていたのだと思う。

そして、3浪目に入った年のゴールデンウィークに血管奇形が再発します。
それは脳出血で発生しました。
「朝から頭が痛いんだよね。なんかあの時ににている・・・」といいます。
その日は伊豆に行く予定にしていました。
「どうする?」
「ああ、いけるよ」
時間が経つにつれて痛みが増すようですが、周期があっていたくなる時と収まる時があると言いました。食事も普通にできました・・・
でもやっぱりおかしい。
この感じは私も記憶にあるものだ。
伊東の病院に電話してみる・・・設備がない・専門医がいない・・・
結局一晩安静を保って翌日朝早く帰ることにした。

帰ってから帝京大学病院に連絡する。担当の先生がいたのですぐ診てくれることになった。検査室に入るときは歩いて行った。戻りはストレッチャーで帰ってきた。「ああ・・・やっぱり出血だ」
担当の先生は、「このままいつもの病院に行く?救急車で運べば大丈夫だから」というので主治医のいる病院に行くことにした。

治ったはずなのに・・・・どうして?

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