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本物を見分ける目

いつも思うこと。世の中にはいろいろなニュースソースがあるけれど果たしてどこまでが本当の事なのか。
そのニュースを発する側は、伝えてもいいことだけを発表する。
あるいは、プレス用に作られた原稿を渡すわけだけど、それも現行の作り手の意志が入る。

またニュースを発する側も、面白く伝えるとか関心を持ってもらえるような伝え方をする。だから、「見出し」はそれぞれのメディアが作り出した言葉で、いかに人目を引くのかで競っている。

最近は、何かあればそれを録画している人たちが必ずいて、スマホ動画がアップされる。買い取ってもらえるらしいから、普通の人もジャーナリストよろしく動画を渡す。(買い取らないことも多いとか。)
とにかく、一般人が撮影した動画もニュースで使われているんだからすごい世の中になったものだ。事件があると周りにいるやじ馬は皆スマホを片手に撮影している。これっていいのかわるいのか。

動画を撮るときに、何も考えずに事実を撮っていると思うけれど、それがマスコミに流れると使われ方によって事実が変わっていたりする。編集の恐ろしさだ。作り手がどのように伝えたいのかによって変わってしまう。

もっとも、昔から新聞や雑誌も同様だったわけだから今更感はあるよね。
冤罪だって、最初はあたかも犯人と断定した報道が先行し、事実が変わると手のひらを返したように権力側を非難する。ずっとそうだった。

本当の事なんてわからないように出来ているのかもしれない。

先日、ちょっとしたインタビューを受けた。
「改革をされようとしているんですか?」という。「そうだね。そんなに大げさには思っていないけれど、やるべきことがたくさんありそうだよね」と答えた。記事になったとき、個人的には「ああ、受け取る側の思考によって、同じことも違って聞こえるんだな」って思った。

客観性だけでは記事は面白くならない。そして事実だけでは読み手の関心を引かないのかもしれない。同じことがネット上の広告でもあるだろう。

いいものは売れる

そういう原則があるが必ずしもそうではない。だから集客メソッドなどがあるわけで、いかに人目を引くか、関心を持ってもらえるか。そういうことが大事なわけ。報道も同じ。

人の言葉だって、同じには伝わらない。
いつも思っていたことだけれど、「海」という言葉から連想する世界はみんな違うのだ。決して同じ「海」を描けない。想像の世界というのは同じにはならない。だからどう伝えるのか、伝わるのかを検証していかなくてはならない。

そして、一度誰かの手によって発出された言葉は、自分の意志と異なっていても修正はできない。公に出るということはだれがどのように解釈してもいい程度の内容にするしかないのだろう。

編集という仕事、記事を書くという仕事、伝える仕事、表現する仕事
あらゆる伝達サービスには必ず人の思考が入るものだ。
方向性の決定、大衆操作なども可能な世界。本当のことを見分けられるかどうかによって、自分も影響されてしまうのかもしれない。

共通言語というものがあるけれど、本当は一部だけが重なっているだけで他は重なることは無い。それでも成り立つのが概念。人の世界というのはすごくアバウトに成立しているということを理解していないと、色分けできないことに遭遇すると迷うのだろう。「ありのままで・・・」なんていうのがあるけれど、個人の確立と人との交差は全く次元が違うからいえるわけだよ。

精神的に未熟な社会になっている世界で、ありのままでいられるのはあまり考えなくなったからで、相手の事よりも自分の関心が大事なだけだったりする。仮にありのままであっても、受け取る人々はそうじゃない。勝手に解釈されてしまう。

さて「思考」をうまく利用すると、ビジネスは成功するかもしれないね。

「欲しい」と思わせればそれは成功への第一歩になるわけだから。

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