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もしも学校が無くなったら?

society5.0という計画がある。前に記事を書いたけれど、それはこれから無くなる職業を考えさせられた。


ITが個人の能力や学習の進捗状況を判断して、必要な学習を配信する。子供たちはPCから流れてくるテキストと問題を解いて成果を報告する。それを管理する。今でも、そういう成績管理・配信システムがあり、導入を決めた際PC教室を使って教員全員と説明を受けた。何人かが「これなら教員いらなくなるよな」と漏らしていた。このシステムがもっと管理しやすくなったら、家庭学習重視になり、学校に行く必要は無くなり、登校拒否とかいじめの問題もなくなるわけだ・・・

この研修に行った時、若い教員や若手行政職員のチームもいろいろな意見を出していた。同時にその危機感を感じているのは私だけではなかったと思う。教員からよく聞く言葉で「学校で自分の教科だけ教える環境ならいいのに・・」というのがある。そんなとき、「それなら講師で良くなっちゃうでしょ。私立なんて時間講師が何人いると思う?ある学校では500人いるって言ってたよ。」学校で決まっている人員は学校設置法・定数法があって確保すべき最低人員を定めている。もちろん公立はそれを超えた配置はない。
特例も法律や条例で決まっている。  

ある私立ではICT教育先進校としてTVで紹介されていたが、配信学習と登校して行う学習を効率よく組まれていて、教員は自分で配信学習用ビデオを作成し、授業はその先を進めるべく行っていた。
凄いと思った。これは公立にはかなわない。
そして家庭学習と登校学習をどのように活用するのか、一つの在り方として受け止めた。

目次
1 学校の存在意義
2 集団と個人
3 近未来社会 Society5.0


1 学校の存在意義

学校の存在意義について考えてしまう。

個人的には「学校」は個人の所属でもあると思う。どこかに所属することで安心できる。今、通信制の高校もあり、登校するしないを自由選択できる。それでも所属しているということには変わりない。もちろん現行の法律で言えば、決まった単位を取っていなければ卒業認定を取れないし、大学受験だって大検を含めて決められた基礎学習ができていなければならないというのがあるので、家庭学習がなんでもいいわけじゃない。

共稼ぎがあたりまえになっている現在、保育園だって「子供を預けられる環境」であり、学校も安心して子供を預けられる場所だと思う。
学校がなかったら共稼ぎはできなくなるかもしれない。高校生ぐらいの年齢ならいいだろうけれど、やっぱり小学生だとほっとくわけにいかない。
そして勉強をカリキュラムに沿って学ぶシステムだけなら、常に子供が家にいる状態になる・・・
それこそ子育ては家庭だけでやりましょう・・なんてことになりかねない。

簡単に言えば、学校のない地域に学校を建てよう(世界の中の貧困地域などのプロジェクトですね)というのがあるけれど、学校がない状態ってある意味「放置」になる可能性だってあるわけだ。
学校で学べることに目を輝かせる子供たちをみることはその存在意義は「可能性」なのかもしれないななんて思う。今の教育に可能性を感じなくなっているのかもしれない。

2 集団と個人

集団が存在するから、個人を再認識できる。

学校だけではなく、人は集団を作る傾向がある。まあ、それを称して友達とか仲間とか呼んだり、あえてそこに所属できない自分を感じると疎外感を持ったり生きづらさを感じたりする。同調できない自分を再認識するからだ。
個性というのも他者がいるからその差異を理解し個別化できるものだ。自分だけの存在ならば感じることは無くなる。  

学校は自分以外の人間がいて、気の合う友達にであったり嫌なことがあることを知ったり、何かをやり遂げる達成感を味わったり、もちろん決まったカリキュラムで効率よく学習できる環境でもあるので、それこそいろいろなことを学ぶところだと思っている。  

ではそこにいる教員の存在意義は何だろう。
担任制をとり、生徒一人一人の声を聞き悩みを聞いたりバカなことを言い合ったり、だめなことをだめといい、保護者の相談にも応じる。そして大事な事は進路相談。「キメの細かい指導」をといつの時代にもいわれてきた。
結局お勉強以外のところでの関わりがすごく大事な事のように思える。
義務教育や高校の場合、やっぱり担任がいて、個々の問題に取り組んでいかないと学校行事も成立しない。学校行事だって楽しい思い出を残してくれる。結構大事な取り組みなのです。安全第一に考えて取り組んでいるのですが、その行事が終わるまで何事もなく終える事、そしてみんな子供が笑顔で帰ってくることに細心の注意を払っている。

今は保護者が「わが子第一」なので、なにかあればクレームを言ってくる。
全て学校のせいだと。
でも、何かが起こるには必ず原因があるわけで、無風状態ではなにもおこらない。本来はね・・・いじめという許しがたい問題は理由なく起こるので、なぜなのか・・・と思うところだけれど、いじめる側の家庭環境に問題があるケースが多い。  

もしも学校がなかったら、子供の所属できるところが無くなる。
さて、どうしますか?

登校拒否という問題だって、行かなくてはいけないという法律があるから問題になるわけですが、多数派に所属できないことは別に悪いことじゃない。だから選択肢は残されている。行かなくていいという選択。地域で学習サポートもしている。ある意味、子供たちを守るシステムは用意されている。
改めて学校の存在意義を考えると、個人を知るには集団が必要だし、自分以外の人間と何かを成し遂げることも素敵な経験になる。その意義を感じないまま卒業を迎える人もいるかもしれないけれど、それでも同調圧力からの逃避だって集団なくして認識することは無いのです。学校はルール(コモンセンス)を教えて、他者との関わりを教えてくれる場所ではないかと思う。

3 近未来社会 society5.0 

もしかしたら、学校の授業が配信だけになって、病院もネットのオープンチャットで診察が出来て、お薬も配送される。買い物もネットで・・・すでに、ネットを使った在宅診療もできるようになり、ネットでの買い物が主流になってお店やデパートが存続できなくなって・・・という話題はずいぶん前から言われている。そして在宅ワーク・・・

家から出なくてもすべて賄えます。そして、キャッシュは流れなくなり・・電子決済しかないなんてね。
新しいコミュニティもできるんでしょうね。きっと。
自分の時間を大事にすることって大事な事だと思うけれど、自分の時間だけになったらその価値は無くなってしまうように思える。反対のことが沢山あるからその価値が上がるわけです。

それでいて、SNSとかではいかに多くの人に指示されるかを競っているわけで、結局他者に対する認知要求は誰でも持っているわけです。
結論から言うと、「人は一人では生きるのは難しい」ということではないかしら。他者に対して文句ばかり言うから、世の中窮屈になっていってるのに、自分が蒔いた種がどんなものか・・・知るべきですよね。

未来が明るくなるために必要な事・・・他者に対する敬意を持つこと


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