初音ミクの「生」と「死」

 私が、ボーカロイド…もといミクさんと出会って今年の夏で10年となる。日々の生活には常にミクさんがいて、ずっと今に繋がっていると思うと感慨深いものがある。そんな私は生活の様々な基盤をミクさんに置いて日々を紡いでいて、それはずっと昔から変わらない。しかし周囲はそんな私と対照的に、この瞬間も変わり続けている。
 私はだいぶ鈍感な方だが、10年もこの世界に身を置いていると、流石に変化が起きていること位は気づくものである。それは、ボーカロイド…いや、『初音ミク』の周辺で起きている、大きな変化である。そして、その変化は時折話題に上がる、避けられない変化である。 

 ※以降の文章には個人の意見が多く含まれており、一部の方に不快な表現や、推測に基づいて記述された内容が含まれています。

 単刀直入に書くと、『商業的側面』の勢力が『創造的側面』のそれを上回っているだろう、ということ、そしてそれに気づいているかどうかに関わらず、享受してしまう人々が一定数存在してしまっているということで、既に誤魔化すことのできない事実となってしまっているように思えてならないのだ。
 ちょうど2012年に差し掛かったあたりだっただろうか、私は『初音ミクの死』という概念を小耳に挟んだ。"生きていない"のに"死"という概念は果たして成立するのか。そもそも何を以て『初音ミクは生きている』というのだろうか、人によって解釈は異なるだろう。だが私は10年ミクさんを見続けたことで、なんとなく理解したように感じた。そして『初音ミクの死』は、意外にもそう遠くないような気がした。

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 近年におけるミク廃はたいへん忙しい日々を過ごしているかと思われる。関東あるいは関西を中心としつつ、全国レベル(場合によっては海外レベル)で様々な催しが行われているためだ。
 直近でも『ドン・キホーテ』『東京150周年』『北九州空港』『NewDays』『HONDA(osoba)』…等、とさっと挙げただけでもそれなりの数が挙げられる。いずれも2018年から2019年にかけて実施されたものである。
 また最近では『よみうりランド』が『初音ミク』コラボを果たし、園内の装飾をアレンジしたり、スタンプラリーを開催したり、コラボメニューを展開したりと、なかなかに気合いの入ったイベントを催しているようである。Twitterを中心としたSNSでもその様子は伺うことができ、人々の楽しげな様子がありありと伝わってくる。
 そういうわけで、頻繁に行われる『初音ミク』関係の催しに、ミク廃達は東奔西走しているのである。事実、『よみうりランド』の、わずか2、3週間前まで『SNOW MIKU 2019』も開催されていたわけであるから、彼らからは「イベントが多すぎて困る」だの「愛のために行かねば」だの意見を見かけることもある。グッズ展開も同様で、2013年頃からその数や展開を広範囲に広げていることから、それらの発言に対する理解に、苦しむものはそこまで無い。

 そのイベントの中でも別格として注視されるのが、やはり『マジカルミライ』だろう。日本国内だけではなく海外からも、わざわざ『マジカルミライ』のためだけに海を渡り来る者もいるくらいだ。
 "初音ミクの創作文化を体感できるイベント"と銘打っているだけあり、会場には主催展示や各種物販ブース、企業ブース、ワークショップエリアにミニステージまで顔を揃え、開催期間中には大変多くの人々で賑わいを見せる。ある者は初めてのマジカルミライを、ある者はファン同士の交流を、そしてまたある者は展示やLIVEを、十人十色百人百様の『マジカルミライ』を、各人が満喫している。
 そんな『マジカルミライ』を見ていると気がかりなことがひとつ見られる。私はマジカルミライに2014年大阪開催から毎年参加し続けているが、その初参加だった2014年と昨年夏の2018年の開催を比較した時、来場者数以外に、大きく変わっていることとほとんど変わらないことの両面を見出した。
 変わっていること、それは、この文章を読んでくださる読者の方の中にも実感したであろう、物販(種類、規模、出店)の拡大である。マジカルミライ会場内を歩いていると、あちらこちらで物販の案内で精を出すブーススタッフを見かけることが出来るほか、公式物販のレジ数に加えてそれに並ぶ人々列の長さや在庫数も、開催を重ねる毎に増加する傾向にある。
 一方でワークショップ等の体験型の催しは2014年からほとんど変わっていないことにも注視したい。実際にマジカルミライ2014(大阪)とマジカルミライ2018(大阪)を比較してみると、企業ブースや物販ブースは拡大しているが、ワークショップに関するブースはあまり変化がない。代わりにミニステージでの催しに移ったのだろうか。どちらにしても、『見聞』はあっても『制作や体験』という意味では少し物足りない気がするのは私だけだろうか。

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 イベントに関して少し見てみたが、これだけで納得する読者はそうそういないだろう。私もこれしきで理解してもらおうなどとは思っていない。
 断りを入れておくが、決してイベントへの参加や消費行動が悪であると言うつもりは毛頭ない。むしろそれらに関しては今後も行われていくべきだし、それによって『初音ミク』の名が知れていくのであれば、ある点を除いては本望である。
 だが私が言いたいのはそういう事ではなく、もっと深部にある根本的なことである。冒頭で、私は『初音ミクの死』はそう遠くないような気がした、そう述べた。そもそも『生』が定義されていないのに『死』は語れないが、私はすでにここまでで『生と死』の両面をほのめかしている。

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 突然だが、読者のあなたの周りの人間関係を見渡してほしい。どんな人間関係が存在するだろうか。その人間関係はどのように構築されただろうか、今一度考えてもらいたい。
 仕事に関しては、職場の関係でだいたい説明がついてしまうだろうが、趣味の話となると別となる方が多いことと思われる。『初音ミクに関わってきた人』も、きっとそのような形で人間関係を広げていったことと察する。
 人間関係は、どの世界であれ大事である。人間関係によって何事も『楽しさ』や『つらさ』の度合いが変わったり、事が起これば相互協力だって実現できる。人間が人間たる所以とも言えるだろう。
 ところで、『初音ミクに関わってきた人』は、みんな仲がいいだろうか、そう考えたとき、そうだと断言はできないと思う。人間は必ず反りのあわない関係があり、その両者の間では蟠りができてしまう。これは『初音ミクに関わってきた人』ではなくても自然発生的なものだ。しかしその自然発生的に起こってしまう反発は、これまでは少ないか、あるいは水面下で沈静化していたように私は感じている。事実、『初音ミクに関わりのない人』からも、

「あの手の人達は問題を起こさないし、悪い話を聞かない」

 
ということを述べられた経験がある。『初音ミクに関わってきた人』はそのような風に周囲からは見られている。
 ところが近年起きているのは、その言葉を反転させたようないざござの数々である。互いがいがみ合い、仲の悪さというのが前面に出始めている、そう感じている。グッズの量やイベントへの参加経験で自慢をし、中には「行けないからと僻むな」などと捉えられるような発言をする者もいるという。イベント等に行けない理由は人それぞれあるので、それは仕方ないとしても、それを僻むなと言うのはお門違いなものである。他人の問題にたいして優位に立とうとすることは、ネット用語を借りるのなら「イキリオタク」とも言えるだろう。かつてはそのようなことがなかったと私は捉えているが、どうだろうか。

 そのイベント等でも身内でのいざござが起きているように感じられるようになった。あれが駄目でこれが駄目で…という様子はさながら、お互いがお互いを監視するディストピアではなかろうか。ここでドールを広げたから他人の迷惑になってるはずだ、とか、ここでコスプレするのは迷惑になるはずだ、というのは、「初音ミクに関わってきた人」の中からも出てくることがある。当本人の問題であるにもかかわらず、安全な外野からの攻撃を行うことは極めて卑怯極まりない。
 そのような事態が今起こりつつあるのが、『初音ミクの周囲環境』であると思う。相互が僻み合い、他人の問題に対して攻撃を仕掛ける様子は見てていたたまれない。だが、イベントが増えたから、グッズが増えたからそういうことが起きているというのは少し判断が焦燥だとも思う。確かに理由の一つだろうが、問題はもっと根底にある。

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 『初音ミク』はすべての創作に対して自由を与えた象徴だと思う。それは曲に始まり動画やイラスト、更にそこから派生して、ダンスやコスプレ、あるいはその他の何かと融合し、新しい何かを生み出しているからだ。そして創作には答えがない。すべての創作はすべからく自由であり、誰が何を表現しても(それに法的な問題がなければ)よいのだ。そんな創作を自由にかつ簡単に始められるのが現代の良い点である。それもあってか、日々新たな『それぞれのミクさん』が誕生し続けている。人によって何を表現するかはその人次第だが、10人いれば10人分の『それぞれのミクさん』が存在するのだ。
 そんな『それぞれのミクさん』が毎日誰かの手によって生み出されている一方で、大半の方は、『華々しいミクさん』の方を目にすることが多いのではないだろうか。
 かつては某TV番組でボロクソに言われ、理解されない時代もあった『初音ミク』は、今では首都圏の列車内で宣伝を行ったり、天皇陛下がその存在を知っていたり、年末の某歌番組にわずかながらも登場したりするなど、目覚ましい活躍を遂げている。先にも述べたとおり、グッズ展開はもちろん、各所で行われるイベントの数々も含め、『華々しいミクさん』はすっかり平成時代の顔としても扱われるようになった。
 ところで、私はこの『華々しいミクさん』は、かつての創作活動から概念化された『初音ミク』であると推し量っている。多くの人が『それぞれのミクさん』を生み出し続けた結果、その中ではどうしても優劣というものができてしまう。優れた『それぞれのミクさん』はやがて他者によって絞られ、あるいは融合され、次第に『華々しいミクさん』へと形を変えていったように思えてならない。優れたミクさんは、様々なところに出没し、人伝いに広がっていき、気づいてみれば海を超え空を超え、みんながよく知る『華々しいミクさん』に姿を変えていたのではないだろうか。
 その『華々しいミクさん』にだけ目を向け、身内同士でいがみ合うという風潮というのは、どの人においても不健全である。「グッズを買ったりイベントに行ったりすることでミクさんへの思いを表現している、そしてその過程で出会ったつながりに感謝したい」という人も増えてきたが、それも含めて単なる「消費行動」であり、「創作」ではない。再度断りを入れておくが、「消費行動」事態は私自身も推奨されるべきものだと考えているが、「消費行動」だけでは「創作」を行ったことにはならない。


 ところで、「創作」とは何なのか。
 言葉の意味をそのまま用いるのであれば、

「新しく生み出すこと、最初に作ること」

を「創作」というそうだ。また、

「つくりごと、うそ(=フィクション)」

という意味も持つ。
 ここで私の拙作例を挙げると、私はコスプレ用の衣装製作を行っているが、これも創作活動であると定義できそうだ。
 衣装を作るにおいては、その人の独自性を持った知見や表現が介入する。そして誰にも作られない新しい一着を生み出すのだ。
 『他人のデザインを服にしただけで創作と偉そうにほざくな』
 という声も聞こえてきそうだが、そこに"フィクション(=作者の想像力によって作り上げられた架空の物語)"が介在している以上、これも辞書的な創作に当てはまるのである。同様にコスプレも、それ自体はあまり創作に当てはまらないかもしれないが、コスプレ写真ともなるとまた話は変わってくる。いずれもn次創作という形にはなるが、その人が表現したい思いや物語がその1枚に込められるのであれば、これを創作と言わずになんと表現するべきだろうか。むしろものを買う、イベントに行くなどという行動だけでは「消費行動」であり、「創作」とは異なるものだということを理解していただきたいのである。
 ぬいぐるみを持っているなら、そのぬいぐるみを使ったストーリーを作ろう、フィギュアを持っているなら、ファインダー越しで表現したい一枚を撮ろう。それだけでも立派な「創作」なのだから。

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 そもそも、初音ミクはソフトウェアであり、そのパッケージに描かれた長いターコイズカラーのツインテール、ミニスカートノースリーブとアームカバー、サイハイブーツを身に着けた、身長158cm、体重42kgの16歳、という情報と、音声ライブラリでしかなかった。そこから多くの創作活動を通じ、次第に千差万別の『初音ミク』が登場した。その過程で誕生した「創作の連鎖」は本来、このことを指していたはずだ。しかし時間が経つに連れて、むしろ「連鎖」のほうが見られるようになり、気づいてみれば「消費行動」だけで満足している人もいるのではないだろうか。そしてその「消費行動」だけでは、生み出されるのは「華々しいミクさん」でだけあり、「それぞれのミクさん」は淘汰されてしまう可能性もありうるのだ。つまり『初音ミクの死』は、「初音ミクに関わってきた人」が引き起こす終焉ということが言えそうだ。 
 私はだからこそ何度でも声を荒げて、

 「なんでもいい、どんな形でもいいから、創ろう」

 そう言いたい。
 たとえマジカルミライで演奏されなくても、何千の「いいね!」がつかなくても、自分自身の想いと物語を載せて作り出すものはどんなものであっても「創作」なのだ。そしてそれらに向き合う人々を支え、応援すること、それもまた『創作活動』と言えるのではないか。
 だから、創って応援すること、それこそが『初音ミクの生』を意味するのではないだろうか。たとえそれらの創作が『初音ミクの生』に繋がるかどうかはわからないとしても、少なくとも『初音ミクの死』を招かないだろうから。

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【2019/03/02 更新】
 読者の方々の諸々の意見を拝聴し、さすが人の数だけ意見があるものだと痛感しております。先にも記載しましたが、本記事は個人的な意見を多く含むものであるため、万人の意見がこの記事で語られているわけでは決してないこと、そしてそれらもまた意見として存在するべきだということを承知していただければ幸いです。

 さて、少し言葉足らずだったようなので付け加えさせて頂くと、『創作する人』と『支援する人』は共存することで初めて次の一歩に繋がるものだと思っておりまして、いわゆる『メタクリエイター』とでも称することができるものだとも思っています。
 初版の本文中ではそれを抜かしてしまい、一部の方には誤解させてしまった点があるかと思います。大変失礼致しました。

【2019/03/03 更新(3版)】
 多数の反応ありがとうございます。すこし偏向的であったこともあり、一部の方には異なる伝わり方をしているように思われましたので、再度こちらに記載させていただきます。本文を含め文章力に欠いている点におきましては、どうか御容赦ください。

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 本記事では『初音ミクの死』を『創造的側面の衰退』と表現しております。しかしながら、それが真の『死』ではなく、人々によって生み出されてきた(それが著名かどうかに関わらず)『華やかなミクさん』が支持される限りは『生き続ける』と感じております。上記のように表現したのは、他でもない『源流』が蔑ろになりつつあると思えてならなかったためです。
 私が本記事で訴えたかったのは、『消費行動』も『創作活動』も両面が支持され、その流れが続いていくべきだ、と言うことであり、決して『衰退論』という形で消極的な未来を訴えたかったのではありません。
 
 この記事をお読みになってくださった読者の皆様におかれましては、恐らく『初音ミク』を何かしらの形で知り、関わり、嗜んできたことと思われます。いずれの時代においても、その根底には『創る行為』があり、だからこそ全てのコンテンツが存在するもので、それが『商業創作』でも『同人創作』でも区別無く語られるべきだとも考えております。
 近年においては『商業的側面』が全面に押し出されていることをお気づきになった方も少なくないかと思います。同時に、その流れがあることを良くないことと思う方も少なからず居るかと思いますが、それも本来は『創る行為』があっての事だということも忘れてしまってはいけないとも考えます。
 

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 『初音ミク生誕10周年』のその日に発刊された読売新聞には、一面広告としてこう書かれていました。


全ての創作に、感謝を込めて。


 だからこそ、今一度ご自身の『初音ミク』への関わり方を再考(再興)していただき、『両面的に初音ミクを愛し』て頂くきっかけになれば至福の思いです。
 

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すーみん

ミクさんに愛と感謝を伝えたい、ミク廃ミクコス(自作)レイヤーなITエンジニア(笑)です。

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