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イスラエル・パレスチナ問題を知る ③

4.近代以降のユダヤ人

17~18世紀のマラーノの活動はユダヤ人のスペイン系(セファルディ)とドイツ系(アシュケナジーム)を遭遇させ、この二つの系統が競合しながら、新たなヨーロッパにおけるマイノリティー(少数民族)の世界を作っていくこととなりました。

【フランス革命】

18世紀のヨーロッパで啓蒙思想が普及したことは、ユダヤ人の解放を大きく進めました。啓蒙専制君主として上からの改革を進めた神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ2世は1781年に宗教寛容令を出し、カトリック教会街の信仰を保障しましたが、その時、ユダヤ教も同様にその混交が認められ、ユダヤ人はゲットー(ユダヤ人を強制的に隔離し、集団で居住させた地区のこと)を出て一般市民と混じって生活できるようになりました。

1789年、フランス革命で出された人権宣言ではユダヤ人の人権も認められました。しかし、一般にそれが受けられられるには何カ月もかかり、国民議会の解散直前の最後の会期で、代議員デュポールが突然採決を強行し、殆ど反対なしで動議が可決され、近代ヨーロッパの史上初めてユダヤ人がその国に生まれた市民と同等の権利が正式に認められました。フランス革命軍がヨーロッパで勝利を広げていくに伴い、各地のゲットーは解放されていきました。

フランス革命において、ユダヤ人も一般市民と認められ、同等の権利を有するとされたことに見られるように、市民革命の時代を経て、人権と平等の思想が一般化しました。また、ヨーロッパで長期にわたって混在して定住、混血が続いたため、ユダヤ人はもはや人種・民族として外見からは判断できなくなりました。「ユダヤ人」の概念も揺らいでおり、使用言語や宗教での大まかなくくりも現実的ではなくなっており、いまや「ユダヤ人である」と自覚するかどうかによって決まってくるというのが実態となってきました。さらに、自ら「ユダヤ人」であると自覚した人々の中には金融業で成功したロスチャイルド家や芸術(メンデルスゾーンなど)、科学(アインシュタインなど)、思想(マルクスなど)の面で活躍する人材が多く輩出しました。これらのユダヤ系の人々を抜きにしてヨーロッパの経済や文化は成り立たなくなっていきました。

しかし、その反面、ヨーロッパ各国が帝国主義の段階に入ってくると、ナショナリズムは国家主義の側面を強くし、民族主義の側面でも次第に偏狭な人種主義が強まっていきました。その格好な攻撃目標とされたのがユダヤ人であり、反ユダヤ主義の高まりとなって現れてきます。

すでに19世紀のロシアではツァーリズムとギリシア正教会の側からの激しい迫害(ポグロム)が行われていましたが、近代人権思想の始まったフランスにおいても、晋仏戦争敗北後の軍国主義の風潮と結びついて反ユダヤ主義が強まり、ドレフュス事件が起こりました。

【ドレフュス事件】

ドレフュス事件とはフランス第三共和制下での反ユダヤ主義による陰謀事件です。1894年10月、第三共和政のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイ嫌疑をかけられ、本人は無罪を訴えましたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となりました。この裁判をめぐってフランスは国論が二分され、判決にユダヤ人に差別があるとして再審を求める共和派と判決を支持する軍部・教会などの王党派が激しく議論を戦わしました。中でも作家エミール=ゾラが1898年に『私は弾劾する』を発表して、ドレフュスを擁護しました。

ようやく1899年に再審となりましたが、再び有罪を宣告され、大統領特赦で出獄しました。結局、1906年、ドレフュスは無罪となりました。19世紀末のフランスにおいても、反ユダヤ主義が根強く存在することを示した事件でした。

ドレフュス事件は、フランスの第三共和政の共和政治を脅かす事件でした。当時、フランスは、1889年のブーランジェ事件、1892年のパナマ事件などが続き、共和政治に対する不信が強まり、一方で普仏戦争の敗北でドイツに奪われたアルザス・ロレーヌの奪回を叫ぶ国家主義の声も強まっていました。そのような中で軍部によって無実のユダヤ系軍人がドイツのスパイであるとして、正義と自由、平等が踏みにじられたのがドレフュス事件でした。10年以上の年月を要したがドレフュスの無罪は確定し、フランスの共和政は守られることになりました。

同時に軍部とカトリック教会の反ユダヤ主義が事件の原因としてあぶりだされることとなり、特に中世以来、フランスのカトリック教会が国家と結びつき、フランス革命で一時分離したものの、ナポレオンのコンコルダート(※)によって復活して国家の保護のもと人権を抑圧していることに対する批判が強まりました。その為、ドレフュスの経過とともにクレマンソーらが結成した急進社会党が台頭し、社会主義政党であるフランス社会党と協力して、1905年に議会で政教分離法を成立させ、カトリック教会と国家を分離する原則が確立されました。

(※)コンコルダートとは、宗教協約、宗教和約ともいい、カトリック教会(その頂点としてのローマ教皇)と世俗の政治権力の間で結ばれる協定のこと。

根強いカトリック教国であるフランスでは、ユダヤ人はキリストを裏切ったユダの子孫という単純な憎悪がありました。他のヨーロッパ諸国と同じく、中世から近代にいたるまで、ユダヤ人に対する差別意識である反ユダヤ主義が続いていました。フランス革命によって、自由・平等・博愛の理念からユダヤ人の人権も認められ、差別は否定されましたが、民衆の中の差別感は残っていました。晋仏戦争後、ユダヤ人でフランスに移り住む人々も増え、第三共和政のもとでの産業発展には彼らの勤勉で高い能力が大きな力になっていました。

特にユダヤ系の金融資本や産業資本が利益を蓄え、彼らは共和政を支持する勢力でもありました。しかし、都市の下層民や農民はそのようなユダヤ人の成功に反発する心理も強くなっていました。ドレフュスを有罪に追い込んだのは軍の上層部だけでなく、民衆の反ユダヤ感情がそのエネルギーでした。

このようなフランスのみならずヨーロッパ全域での反ユダヤ感情の強さを、ドレフュス事件で身を以って感じたのがハンガリー出身でジャーナリストとして当時パリに滞在していたユダヤ人、ヘルツルでした。彼はこの事件でショックを受け、ユダヤ人の安住の地をヨーロッパ以外に見いだそうという考えを抱くようになり、その行き先としてユダヤ人の故郷であるシオンの地、パレスチナを目指すシオニズム運動を開始しました。

ドレフュスは1897年スイスのバーゼルで第1回のシオニスト大会を開催、一つの政治勢力となりました。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家はシオニズムを財政的に援助した(パリ家のエドモン)。初期のシオニズムでは、彼らが国家の建設する場所は必ずしもパレスチナを想定してはおらず、アフリカの未開の地なども想定されていました。

ところが、パレスチナの地は当時オスマン帝国の領土となっていたので、第一次世界大戦でオスマン帝国と戦ったイギリスがパレスチナにユダヤ人の国家を建設しようというシオニストを応援し、バルフォア宣言でユダヤ人に戦後の国家建設を約束しました。その結果、多くのユダヤ人がヨーロッパからパレスチナの地に向かっていきました。

しかし、バルフォア宣言は、アラブ人の独立を認めたフセイン・マクマホン協定、フランスなどとのオスマン帝国分割を密約したサイクス・ピコ協定と矛盾し、現在に至るパレスチナ問題の原因となりました。

【フセインマクマホン協定】

第一次世界大戦が戦われている最中の1915年7月14日、メッカの太守であるハーシム家のフセインと英国の中東担当の高等弁務官マクマホンとの間で取り決められた協定がマクマホン協定と言われます。書簡の形で交わされたのでフセイン・マクマホン書簡とも言われます。英国がユダヤ人に示したバルフォア宣言、フランスなどと密約した内容と矛盾する内容でした。

英国は第一次世界大戦でドイツ側に参戦したオスマン帝国の後方を攪乱するためアラブ勢力が反乱を起こすことを、大戦後の独立を約束することで認めたのがマクマホン協定です。かねてオスマン帝国からの独立を実現しようとしていたアラブ人は、英国に協力し、対オスマン帝国の反乱を起こす代わりに戦後の独立を承認してもらうため、英国と結びました。

フセイン(フサイン)は預言者ムハンマドの血統を継ぐハーシム家の主張であり、オスマン帝国から聖地メッカ及びメディナの管理権を持つシャリーフ=総督(太守)に任命されていました。マクマホンはエジプト及びスーダンの英国高等弁務官でした。この協定はマクマホンからフセインに宛てた書簡という形式で、両者の間の秘密協定として結ばれました。

この協定に基づいて、1916年にフセインはいわゆる「アラブの反乱」を開始し、ヒジャーズ王国の設立を宣言、1918年にフセインの子ファイサルがダマスクスを占領し、シリアの独立をも宣言しました。このアラブの反乱を指導した英国人が「アラビアのロレンス」として有名なトーマス・E・ロレンスでした。

しかし、同じ1916年5月16日英国は一方でフランスおよびロシアとのサイクス・ピコ協定でアラブ地域の英仏露での分割を密約しており、翌年には一方のユダヤ人にも国家建設を認めるバルフォア宣言を出しており、矛盾する約束を同時にしていたことになります。

第一次世界大戦後、シリアを委任統治することになったフランスはファイサルを追い出したので、英国は自己の委任統治領であったイラクの実質的支配権をファイサルに与え、兄のアブドゥッラーにはトランスヨルダンの支配権を与えました。英国が辻褄を合わせたというわけです。

【サイクス・ピコ協定】

第一次世界大戦が始まり、中に英国、フランス、ロシアの三国で結ばれたオスマン帝国領の分割を取り決めた密約がサイクス・ピコ協定です。1916年5月16日、英国・フランス・ロシアの三国首脳は密かにペテログラードに集まり、大戦後のオスマン帝国のアラブ人地域について以下のような秘密協定を作成しました。

・英国はイラク(バクダードを含む)とシリア南部(ハイファとアッカの二港)
・フランスはシリア北部とキリキア(小アジア東南部)
・ロシアはカフカースに接する小アジア東部
・パレスチナ(エルサレム周辺地域)は国際管理地域とする

「協定」(agreemennt)は、「合意」と同じ意味の外交用語であり、「条約」(teaty)が両国の議会の承認(批准)が必要なのに対して、両国の首相や外相など有力な立場にあるものによってなされる国家間の約束です。近代・現代の国際関係では無数に存在し、「条約」と同等の効力を持つとされていますが、しばしば政治情勢の変化で双方あるいは片方から反故にされることも多くあります。

サイクス・ピコ協定の当事者、英国のマーク・サイクスは政治家であるとともに旅行家、中東専門家として知られた人物、フランスのジョルジュ・ピコは法律家で外交官でした。この協定は二人の協議で合意がなされましたが、交渉の過程でロシアの同意を取り付けることが必要と考えられ、最終的にはロシアの外相サゾノフも合意に加わったので、「サイクス・ピコ・サゾノフ合意」とも呼ばれることがあります。

この合意は既に三国協商を成立させていた、英国・フランス・ロシアの三国が敵の同盟側に加担したオスマン帝国の領土の中東地域を大戦後の戦後処理の一環として分割統治しようという協定でしたが、国際的には公表されない秘密協定とされていました。

ところが、1917年のロシア二月革命でロシア帝国は崩壊、十月革命で権力を握ったボリシェヴィキ政権は大戦からの離脱、つまり三国協商からの離脱を決め、さらに帝政の悪行を暴露する広報戦の一環として、サイクス・ピコ協定を含む秘密外交の書類を公表したのです。それによって、この協定は英仏二国間の協定となり、その意義も世界大戦後に獲得する領土を事前に調停して分割支配しようという帝国主義国家による世界分割協定であるととらえられるようになり、植民地解放を目指す民族主義運動にとって戦いの大義を与える証拠文書となってしまいました。

ロシア革命後のソビエト政府は秘密条約を世界に暴露し、すべて破棄したので、この協定は実現には至りませんでした。しかし、英国とフランスは大戦後の1920年、イタリアでサン・レモ会議を開催して旧オスマン帝国を分割して委任統治することを協議し、オスマン帝国との講和条約であるセーヴル条約に盛り込みました。

【バルフォア宣言】

第一次世界大戦末期の1917年11月、英国が大戦後にパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを認めた宣言をバルフォア宣言といいます。ロイド=ジョージ挙国一致内閣の外相バルフォアからロンドののウォルター=ロスチャイルドへの書簡として出されました。ロスチャイルドは19世紀以来、ロンドン・パリを拠点に活動し、大きな資産を持つユダヤ系財閥の当主で、当時、ユダヤ人のパレスチナへの移住と建国を目指すシオニズム運動の代表と務めていました。

バルフォア宣言はロスチャイルドへの書簡という形を取りましたが、英国政府が正式に表明したもので公開されました。

その文面の要点は「英国はパレスチナにおけるユダヤ人の民族ホーム『A National Home』の樹立に賛同して、目的の達成のために最善の努力を払う」という点でした。それには「パレスチナに現存する非ユダヤ人社会の市民的及び宗教的諸権利」を害することのないこと、という条件が付けられていました。

この宣言は、ユダヤ国家の建設を求めるシオニズムに「いい顔」をすることによって、パレスチナでの対オスマン帝国戦を有利に進めることと、ヨーロッパにおけるユダヤ系大資本の代表であるロスチャイルド家の支援を取り付けることを狙っていたのです。

英国はバルフォア宣言を出す一方で、すでに1915年7月にアラブ人の実力者フセインとの間で秘密協定であるフセイン・マクマホン協定を結び、さらに1916年5月にはフランス・ロシアとの間でオスマン帝国領土を分割することの秘密協定としてサイクス・ピコ協定を結んでいたので、それらと矛盾することとなりました。

【英国の二枚舌外交】

サイクス・ピコ協定は、前年の英国がアラブ人に独立を認めたフセイン・マクマホン協定、さらに翌年発表したユダヤ人にパレスチナでの国家建設を認めたバルフォア宣言とも矛盾し、英国の「二枚舌外交」と言われるもので、現在も続くパレスチナ問題の原因となっているものです。

ロシア革命後のソビエト政府は秘密条約を世界に暴露し、すべて破棄したので、サイクス・ピコ協定は実現には至りませんでした。しかし、英国とフランスは大戦後の1920年、イタリアでサン・レモ会議を開催して、旧オスマン帝国を分割して委任統治とすることを協議し、オスマン帝国との講和条約であるセーヴル条約に盛り込みました。

続く


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