20190628タイトル

未来をひらくために――『武器としての世論調査』もう一つの「あとがき」

ぼくが天体の物理学の研究に進んだちょうどその年に原発事故が起きてしまい、目まぐるしい日々が過ぎた後、大学院を卒業するときに提出した書類に書いた進路は「詩人」でした。

詩や純文学の小説にある言葉は、政治の場面とは違った使われ方をします。しかしそれはフィクションだとか、幻想だとかいった意味ではありません。それは、政治の言葉が集団のなかで使われるのに対して、文学の言葉はあくまで個人によって使われるものだというような意味合いです。誤解を恐れずに言うのなら、政治の言葉が多くの前提となる価値観の上で放たれるのに対して、文学の言葉はそうした前提をもたない場所で、想いや体験などのなにか個人的な価値を探り、形にしようとして呟かれるものということになるのかもしれません。

政治の場では多くの場合、考え方の近い人たちが党派などの集団を作って主張を行います。そこには前提となる価値観があり、「仲間」や「敵対者」が存在するため、使われる言葉も少なからずが個人を離れて集団の様相を帯びがちです。本当にかけるべき言葉が何なのかじっと踏みとどまって考えずに、安易に自らの「仲間」と同じ声を上げたり「敵対者」を非難するように言葉が使われる場面も少なくはありません。

けれどそうやって使われる言葉というのは、結局のところ、個人の内側から湧いてきたものではなく、外部から与えられたものなのです。一つの言葉を放つときには、誰しも何かをなしたかのような感覚になるのでしょう。しかし放った言葉が自分の内から生まれたものではなく、単に外部から与えられたものであるのならば、そこにある「自分」は言葉を放つためのからっぽの容器でしかなくなります。政治から自分が消えていってしまうのです。その言葉を放つのはまさにその自分である必要がなく、同じ声の大きさを持った他者だって構わないわけですから。

ここで「外部から与えられた」というのは、集団の他の「仲間」たちが口々に使っている言葉かもしれません。状況や立場や雰囲気のなかで、集団の一員として口にする言葉かもしれません。いずれにせよ、自分が自分の言葉でなく、他者の言葉で語りだすというのは危うさがあることです。

また、そうした外部から与えられた言葉は決して多くの人には響きません。その言葉が自分の実感にもとづいていないがために、新たな受け手の心を揺さぶることができず、共感するのは元から価値観を共有している党派や集団の内側に限られるからです。そして発せられた言葉は消え去るまでずっと、その閉じられた世界を横滑りしていきます。

たとえ政策を語るのであれ、候補者を応援するのであれ、借り物の言葉を繰り返したところで、人の心が深いところで動かされるわけではありません。自分の想い、自分の心の底から湧き上がってくるような言葉――まさに自分しか放つことのできない個人の言葉こそが求められるのです。

だから自分の言葉を大切にしてください。例え集団や党派に属していたとしても、自分の存在は、必然的に集団や党の中央とはずれているはずです。それが人間の多様性なのですから。だからそれを大切にしてください。

必ずしも希望を語らなくてもいいとぼくは思います。誰もが希望を語れるわけではないし、むしろ絶望を語ることが何より強い希望を示すことだってありうるというのは過去の文学の示すところでもあります。それぞれが抱えている違和感、閉塞感、焦燥感。今の政治を見ていて何を一番おかしいと思うのか、どうあるべきだとおもうのか――。誰かが言ったこととは違う、自分しか言えないことがあるはずです。そうしたものを語ることは、人の心を動かしうるはずです。

選挙の時もそうです。自分の言葉で政治や生活を語ってみる――目指す未来があるのならそれを語ってみる――そうした言葉は響く可能性を秘めています。演説の時もまた、そうした言葉が聴衆の心をつかむのです。

もちろん、いつだって一人の言葉を受け取る人は限られているでしょう。三人かもしれません、五人かもしれません。けれど一人の言葉では終わらないかもしれません。心を動かされたならば、受け取った人が同じように自分の言葉を放つことだってあるはずです。

「ある人の表現が、それを受け取る人の心にとどまったり、心を動かしたりすることがあります。そうすると受け取った側の人の振る舞いもこれまでとは違ったものになり、そうして発せられた新たな表現がまた他の人へ伝わっていきます。この連鎖は空間を超えて社会に広がり、時間こえて未来に広がります。ですから政治とのかかわり方も従来の政治参加だけというふうに限定せず、文章を書くのでもいいし、絵を書くのでもいいし、歌うのでもいい。日常生活の中で家族や友達や同僚と関わっていくのでもいい。そしてもちろん投票するのでもいい。望む未来に向けて表現を放ち続けることが生きるということで、それが未来をひらくのだという立場をとるわけです」

『武器としての世論調査』第七章・政治参加の一つとしての選挙(p.181)

ここでいう表現というのは言葉よりももう少し広い概念になりますが、それが人から人へと伝わりながら未来へ向かっていくという立場をとることに、ぼくは希望を見出しているのかもしれません。

未来をひらくのは表現の連鎖です。一人の人がなしたことは、社会のなかに痕跡をとどめます。関わった人の心に残り、その人の振る舞いを変化させていきます。

そして、さらにその人のなしたことが別の人に伝わる――それが世代をこえて未来に引き継がれる――そうした意味では、人は死んでしまっても社会の中に生きていけるのでしょう。

先の戦争を止めようとした人たちも、戦争の被害者として死んでいった人たちも、一つ一つの権利が勝ち取られることを夢見て死んでいった人たちも、いま、この社会の中に「生きて」います。ぼくたちが生きて表現を続ける限り、彼ら、彼女らのたたかいは、引き継がれているということです。

たった一人の人間が起つとき、その横には、その後ろには、かつて生きた大勢の人たちが並んでいるのです。それが歴史です。ぼくたちもその一員であるわけです。

そうして自分が死んだ後にも続いていく社会を、冷たい他者のつらなりではなく、本当に次の世代に継承する価値のあるあたたかい社会であると感じられるとき、それを良い社会ということができると、ぼくは思います。

2019年4月11日 三春充希

本稿は『武器としての世論調査――社会をとらえ、未来を変える』の「もう一つのあとがき」として書かれたものです。今回ここで公開するにあたって、一部に改稿を加えました。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

サポートとても助かります。必ず大切に使わせていただきます。*(๑˘ᴗ˘๑)*

55
社会を変革する手段としての正確な政治情勢分析を、誰からも独立して探求しています。著書に『武器としての世論調査――社会をとらえ、未来を変える』(ちくま新書)。自由にフォローしてください。Twitter: https://twitter.com/miraisyakai

この記事が入っているマガジン

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。