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拡散する「私」の視点〜吉岡実の歌作から読み取れるもの〜(山﨑修平)

※2018年度未来評論・エッセイ賞受賞作品(「未来」2018.9掲載)

 詩人として知られる吉岡実は、創作活動の初期に俳句や短歌を作る時期があった。本稿では、短歌を創作した吉岡が、なぜ詩作に専念することになったのか、また、吉岡の詩作と歌作がどのような影響を与えあっていたのかを考察することを目的とする。
 一九八〇年十月号の『現代詩手帖』誌上にて、吉岡は金井美恵子と対談をしている。俳句や短歌を初期に創作していたと金井に告げる吉岡は、「短歌でもね、北原白秋の模倣に終始しちゃって、歌人になれなかった。」と胸中を打ち明ける。その後、「ぼくはやっぱり詩に行ってよかったということね。歌人でも俳人でもぼくは駄目だったんじゃないか、中途半端なものだったと思う。」と述べた上で、金井の「あの短さにとどまれないみたいなところがあったということですね。」という返しに対して「そうね、やっぱり長いものが欲しかったわけね。自分の表現形式として長い形式、──まあ、詩なんてのはどこまでが長いのか短いのかわかんないけど。」と、自身の創作活動のこれまでを振り返っている。
 吉岡の述べた「自分の表現形式として長い形式」とは何か。短歌と詩のそれぞれが表現し得ることの差異を解き明かすことに繋がりはしないだろうか。そのために、一九五九年に上梓された歌集『魚藍』を繙くことにする。『魚藍』は、第一歌集にして唯一の歌集である。だが当書は、一九七三年に新装版として再版されている。このことは吉岡自身が、詩作をする前の時期の歌作がその後の表現に影響を与えていたと感じていたためではないか。現に吉岡の死後一九九六年には『吉岡実全詩集』が編まれ、『魚藍』も歌集として唯一収録されている。「自分の表現形式として長い形式」である詩作に至る道のりを探るため、三首を挙げることとする。

  唐黍の毛に夕風のわたる頃汽車は駅へとカーブしてゆく
  葉脈に四月の朝の風かをり犬と女は丘をかけゆく
  夜の蛾のめぐる燈りのひとこころめくりし札はスペードの女王

 一首目。唐黍の毛に夕風が吹いている。唐黍全体ではなく、唐黍の毛に意識が集中している作中主体の視点は、下の句の「汽車は駅へとカーブ」するというシンプルな状況説明を受けて、景全体を捉える視点へと拡散するように動いている。あるいは一首の中に唐黍の毛を見る視点と、汽車がカーブするのを見る視点と、二つの視点が存在している歌とも取ることができるだろう。つまり、唐黍の毛というミクロと、汽車がカーブするというマクロの視点という二つの視点が一首の中にある。このように二つの視点が介在しているために、Aという視点(吉岡自身)と、Bという視点(吉岡の想像による視点)と捉えることもできる。さらに、三句目の「わたる頃」という語句によって、上の句と下の句との場面での時間軸を共有していることがわかる。二つの独立した詩句である上の句と下の句を絶妙に、あるいは奇妙に、接続したことによって、現実世界からわずかに乖離した世界観の創出へと繋がっている。
 二首目。上の句の清冽な喩と詳細なミクロな描写と、下の句のマクロに捉える作中主体の目と、二つの場面の転換が一首の中にある。「犬と女は丘をかけゆく」という、唐突とも取れる人物と動物の行動そのままを捉えた語句の選択によって、作中主体と「犬と女」の関係性に対して読者の想像の余地を残している。三十一音という定型表現の要請は、作品の言い表したいことを、定型に当てはまるように凝縮し、時に韻律によって変形させ、余計な情報を削ぎ落とすことによって成り立つ。このように短歌をパロールからエクリチュールへと引き上げる「人為的な作業」によって、三十一音を一つの構成単位とする表現は屹立している。だがこのことは、一首という単位を器と見做すと、余計な情報を削ぎ落としたことによって、器に収められた情報には不純物のない、濃度の濃い核のある情報が詰められていることになる。つまり、「情報量が過多であるゆえに希薄」、「情報量が抑えられているから濃厚」という、形容矛盾と受け取られかねない論法が成立する。無論、短歌に限らず、定型という枠組みのあるすべては——キャンバスという定型のある絵画でも、写真でも、映画でも——同様である。定型という枠組みによって、一首の中において肝要な一点を捉え、瞬間を捉えることが短歌の読み(詠み)が主流となることは、ある意味では、作り手と読み手の共犯関係というべき信頼関係の上で成立している不文律とも言うことができる。ところが、例示したこの歌の場合において、作中主体という名のカメラのレンズが、上の句と下の句で捉えている視野角の遠近にかなりの隔たりがある。一点を捉える静止画のカメラというよりは、動画として時間的経過を描写している短歌と考えることができるのではないだろうか。つまり、吉岡本人がこのことに意識的であるかはさておき、短歌の先ほど述べた主流となる読み(詠み)とは、異なるところに吉岡の主眼が置かれていたのではないだろうか。
 三首目。この歌を一読した時に、一首の情報量が過多であると感じた。先に述べたことに倣うなら「情報量が過多であるゆえに希薄」である。この歌が言い表したいことは、三十一音という短歌の定型では足らず、しかしながら短歌にするために、力技で収めた感じに映る。一首全体を読みくだした時に、どこか締まりのない茫洋とした歌になってしまっている。例えば「めくりし札はスペードの女王」であることが、何かの記号であるのか、暗喩であるのか、それとも実際にめくった札がたまたまそうであったのかが分からない。もちろん、作者が実際に札をめくったのか、めくった札は何であったのかという「正解」を求めることはナンセンスである。しかし、この歌の中で「めくりし札はスペードの女王」という語句を選択した必然性を読みとして歌に問うことは、必要なことではないか。短歌を読むことは、作者による語句の選択の必然性と、読み手にとっての必然性とを擦り合わせる営為だと考える。さらに「夜の蛾のめぐる燈りのひとこころ」という、詩的でありそれだけで一首立ち上がるような上の句と、先ほどの下の句のどちらに重きが置かれているのかが判然としない。そのために、一首全体が捉え難い印象を読者に与えている。
 三首を例示してきたことから、吉岡が、短歌では言い表せられなかった点を大きく二点、まとめることができる。一点目として、作中主体による単独の視点の瞬間を捉えるのに適した短歌という詩型の中で、視点を拡散させることや、時間的経過を表すことを模索したのではないか。別の言い方に置き換えるならば、静止画ではなく、動画を短歌の詩型でもって表そうとしたのではないか。しかしながら三十一音の制約の中で、吉岡の言い表したかったことは、十全に発揮できたとは言い難い。二点目として、先の点を達成させようとしたために、一首における吉岡が収めようとした情報量が、過多であることが挙げられる。だがその事は、一首の情報量が過多であるがゆえに三十一音の中で引っかかりとなる核心を捉え難いことでもあり、読みの印象が希薄であるとも言い換えることができる。
 吉岡は言い表したいことを十全に発揮出来る表現を模索する中で、短歌という詩型を選択し続けることが、窮屈であったのだろうか。吉岡は、三一音という定型を持つ短歌ではなく、吉岡独自の定型を詩作に求めたのであろうか。それでは、創作時期としては歌作のあとに作られた詩篇を読んでいくこととする。

    冬
  
  亜鉛の錘が雪の蝿を潰す
  褐色な牡蠣の液汁が街を蔽ひ
  時計の針は北へ折れ曲る
  赤馬の鼻孔に夜行列車が到着した
  地殻と粗い舌へ蝋燭の焔ゆらぎ
  娼婦の骨盤に羽ひろげて鴉が下りる
    遊子の歌

  朝夕の
  襟飾がおもたくて
  私は乳房のふくらみに
  羊を飼ひ
  草笛を吹く
    七月

  氷菓子はとけて
  銀の匙につたはり
  爪の紅ににじみゆく
  淡い夏の夕
  
  鏡の中の女の捲毛に
  風がひとすぢゆれてる

 第一詩集の『昏睡季節』より、「冬」、「遊子の歌」、「七月」を引用した。三編ともに行分け詩の体裁をとっている。初期の吉岡の詩の特徴として、幻想的な豊かな叙情性をすでに持ちながら、同時に作者の観察眼とも言うべき現実の生活に根ざした視点の両面を持ち合わせている点と、詩篇の連と連との移り変わりが、時に、前の連を踏まえないほどの詩的飛躍がなされていることが挙げられる。ここで「遊子の歌」に注目をしていく。「朝夕の」「襟飾がおもたくて」という連までの読者にもたらされる情報は、襟飾をすることが「おもた」いということである。この時点では襟飾の重量が身体的に負担であるのだろうかという推察にとどまる。ところが「私は乳房のふくらみに」「羊を飼ひ」「草笛を吹く」と連は続く。三連目からの詩的飛躍によって「襟飾」が「おもた」いという「私」の個人的心情の吐露から飛躍をして、「乳房のふくらみ」という女性性の喩を導入とし、動物を飼い、「草笛を吹く」という「おもた」さの解決方法には通例成りえない選択肢へと導かれるのである。これによって「私」にとっての「おもたさ」は重量としての「おもた」さよりも詩的言語としてより豊かな意味を携えた言葉として捉えることができ、時に「おもた」さを感じるアンニュイな「私」という人間像が、詩篇の背後に浮かび上がってくるのである。
 吉岡が短歌ではなく、詩によって言い表すことができたことは、超現実的(シュルレアリスム)な表現ではないだろうか。いくつもの意味を何層にも重ね合わせた語句の選択による詩句が、また別の詩句と呼応し、時に反駁し、現実世界の位相をわずかにこじ開けることによって、広がり放たれる詩情は、何人もの観察者たる「私」と、時間経過を伴う表現によって表出させている。一編のなかで、静止画ではなく動画のように視点が動き、視点が一つの事物を捉えたかと思うと、また別の視点へと拡散する吉岡の詩は、「過去の私」、「現在の私」、「未来の私」、という様々な「私」の持つ記憶を自由に往還している。言い換えるならば吉岡の詩における「私」は、吉岡自身でもありながら、同時に吉岡ではない他者の視点を内包し、他者化されている。このことから、吉岡は、作品を通じて言い表したかったことが、作中主体である「私」の視点が内在する、私性の文学である短歌では言い表し得ないことであると考えたのではないか。だが、この短歌創作期を敢えて習作期とするならば、短歌によって表現できることの限界を見極めながら吉岡は自身の文体を確立させていったと捉えることができる。
 本稿では、吉岡が、なぜ短歌から詩作に専念することになったのか、また、吉岡の詩作と歌作がどのような影響を与えあっていたのかを考察してきた。吉岡の詩に見られる現実と超現実を往還する表現は、十代の吉岡の短歌から既にその萌芽を読み取ることができる。だが吉岡は、短歌という既に確立された定型表現を持つ詩型ではなく、詩を自身の表現として選択をした。このことは、吉岡の言い表したいことが、短歌という表現では十全に言い表し得ないためではないかと本稿では考察をしてきた。その上で、詩より先に、定型詩である短歌の習作を残し、歌集を再販し全集にも採録したことは、吉岡にとって、吉岡の作品に接する読者にとって、大きな意味を持つことの証左でもある。吉岡は、「自分の表現形式として長い形式」を、短歌の習作を残すことを通じて確立させる必要性を感じ取り、吉岡独自の定型を、詩によって獲得したという考察をもって、本稿の結びとする。

(了)

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