深読みで楽しむDetroit:Become Human (21)  感情にかける橋

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

『ブリッジ』シノプシス
 エデンクラブでの捜査を終えたハンクとコナーは、アンバサダー橋近くの公園で車を止めた。雪がちらつく中、橋の見えるベンチで酒を飲むハンクに、コナーは声をかけるが、ハンクはコナーに「お前は何者か」と詰問する。

楽園の東、川の西
 名優ジェームス・ディーンの銀幕デビュー作である「エデンの東」という映画があります。原作はスタインベックの同名小説で、家族の人間模様、特に父子の愛憎を描いた作品です。タイトルの「エデンの東」とは、創世記で「自分より愛される弟」を嫉妬のあまり殺したアダムとイブの長男カインが、罰として追放された「エデンの東にあるノドという地」から採られたものです。
 ユダヤ教の成立を考えた時、東という方角には大きな意味があります。ユダヤ教はもともとエジプトで奴隷のような生活をしていたヘブライ人たちの間で成立した宗教です。ジェリコが「神がヘブライ人に与えた約束の土地」であることはすでに触れましたが、この地はいうまでもなくエジプトから東にありました。東というのは、定命の人間が生きる「この世」のある方角なのです。逆に、ナイル川より西の、ヘブライ人にとっても未知の世界はあの世であり、楽園でもありました。
 この世とあの世が地理的には地続きで、その間に川や海が置かれている、という考えは、多くの文化に共通しています。日本でも古代日本における常世の国、沖縄におけるニライカナイ、仏教における西方浄土なども概ね似たような世界観と言えるでしょう。そして、この章の舞台となるアンバサダー橋もまた、「アンドロイドが苦しみながら生きる地」であるアメリカと、「アンドロイドにとっての楽園」であるカナダを隔てる一本の川(デトロイト川)にかかっています。
 ハンクがアンバサダー橋越しに眺めるオンタリオ州ウインザーは、すでに触れた通り、かつて多くの黒人奴隷が自由を得た地です。そして、展開次第でアンバサダー橋は最後の章にも登場します。
 
あなたの色に染まります
 「ブリッジ」は極めて短い章ですが、これまで積み重ねてきたものがいよいよ「選択」として各キャラクターに突きつけられ始める転換点でもあります。その火蓋を切るのが、ハンクがコナーに銃を突きつけるシーンです。
 それまで、コナー編は証拠集めと推理を積み重ねる、警察ごっこのストーリーでした。ですが、ここでコナーとハンクは新たな行動に出ます。コナーの側は、ハンクの過去の、つまり内心の詮索。ハンクの「以前はよくここに来ていた」という言葉に「何の以前なのか」と尋ねたり、亡くなった息子コールについて聞き出そうとしたり。ソーシャル・モジュール機能を駆使して人間関係を改善しようとするだけなら、単純にデータベースに検索をかければよいはずですし、実際にコナーはすでにそうやってハンクの基本情報を得ています。ハンクが触れたくない過去に触れるという行動は、AIとしてはあまり効率的なやり方とは言えないでしょう。でも、敢えてその行動に出たことは、コナーが任務以外の何かに価値を見出した、つまり本格的に変異が始まった兆しと言えるのかもしれません。
 一方、ハンクはそれまで「どう扱ったらいいかわからんモノ」扱いしていたコナーに対し、「お前は何者なのか」と問いかけます。これまでの態度や終盤の展開でわかる通り、ハンクはただアンドロイドを拒絶しているのではなく、現在の社会に懐疑的なだけで、むしろアンドロイドを人間として、仲間として見たいという気持ちを持っています。ハンクの問いは、コナーが自分の新たなパートナーになってくれるのかどうかを知りたいという本心の表れでしょう。だからこそ、「私はあれそれができる機械です(設計された通りの存在)」と答えた時にはハンクの好感度が下がり、「あなたの望む何にでもなります(=変化し、成長できます)」と回答した時に、ハンクの好感度が上がるのではないでしょうか。

空の器と死の練習
 ハンクの最後の質問、「お前をここで撃ったらどうなる?」の答えのうち最初の二つ(「あんたはどうせ撃てめえよ」と「なんでそんな怒るん?」)は、ハンクとの対話の形を取っています。一方、後ろの二つは、より哲学的なものです。
 すでにカールについて語ったところで、不可知論とは何かを説明していますが、3つめの選択肢「アンドロイドに天国はないでしょうね」は非・不可知論的(少なくとも人間には天国があるという考え方を踏まえている)、逆に最後の選択肢は不可知論的(機能を停止した=認知の及ばないところには何もない)です。問いに対してレトリックを使わず、シンプルに答えているように見えて、実はこの最後の答えこそがもっとも人間的、哲学的な回答であるというのは、よくできた皮肉ですよね。
 コナーとは逆に、ジェリコでマーカスが出会った瀕死のアンドロイドは、「(私はもうすぐ死ぬから)死後の世界のことがわかるわね」と言いました。コナーの回答の後ろ2つもそうですが、機能を停止したら周りがどうなるか(自分の機能停止により、環境にどのような影響が出るか)ではなく、機能を停止した時自分に何が起きるのかを考えるのは、極めて非・機械的な回答と言えるでしょう。
 歴史の中で、多くの哲学者が死について考えてきました。プラトンは「哲学は死の練習である」と言いましたが、その背景には魂を人間の本質とし、肉体は魂の器に過ぎないとする師ソクラテスの考えがあります。DBHの中で、本来アンドロイドは「魂を持たない機械(空の器)」として作られ、クロエもショートフィルムの中で「(どんなに人間そっくりに見えたとしても)私には決して手に入れられないものがあります。魂です(日本語では「心よ」と訳されていますが、英語では「A soul」)」と語っています。これが事実であれば、死を考え、哲学するアンドロイドというのは、それ自体が矛盾しているのです。
 なにもかもぜんぶカムスキーってやつの仕業なんだ。

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