深読みで楽しむDetroit: Become Human(31) 国境の長いトンネルを抜けると地獄であった

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

『魂の夜』シノプシス
 ジェリコの指導者は、最後の決戦に向けての決断を下す。

暗き夜を超えて
 この章のタイトル、英語だとNight of the soulとなっていますが、これはおそらく「十字架のヨハネ(ファン・デ・ラ・クルス)」の名で知られる16世紀スペインの神秘思想家の詩集「魂の暗き夜(Noche oscura del alma、英語ではDark night of the soul)」を念頭に置いたものでしょう。「魂の暗き夜」は、カルメル会の修道士であった彼が神との合一に到るまでを描いた作品ですが、この暗き夜とは「信念を持っているにも関わらず、神から見放されたかのように迷い、苦しんでいる状態」を指します。自分が選んだ道や信じるものは正しいのか、自分の人生になんの意味があるのかといった、自らの存在意義そのものに疑念を抱いて苦しむ様子を、闇夜に例えたのです。
 十字架のヨハネは、その迷いを超えて、最後には神の愛の体験に至るのですが、一方でインドでの慈善活動で知られるマザー・テレサは修道会を離れてカルカッタ(現コルカタ)の町の人々のために活動を始めた1948年から死ぬまでのあいだずっと、この「魂の暗き夜」に囚われていたと伝えられています。
 「魂の暗き夜」という表現は、キリスト教神学に取り入れられただけでなく、小説や音楽などのテーマとしてもしばしば取り上げられていますが、最も有名なのは「華麗なるギャツビー」の作者スコット・フィッツジェラルドによる「魂の暗き夜というのは実のところ、いつまでも丑三つ時が続くような孤独なのだ(In a real dark night of the soul it is always three o'clock in the morning,day after day.)」という一文でしょうか。
 ちなみに私が好きなのは、Loreena McKennittの同名曲です

 真夜中、全ての人が寝静まった丑三つ時には、人の孤独は何よりも深くなる。魂の暗き夜とは、その孤独がずっと続くことーーフィッツジェラルドは、そう表現しました。それでも信仰、信念のある人は、いつか神に愛される、あるいは許されるという希望にすがって生きることができます。むしろ、その希望を捨てて自ら死を選ぶことこそが、「キリストの救済の約束を信じなかった」という意味で、キリスト教における唯一の罪なのです。

 この章の序盤では、「魂の暗き夜」に置かれた二人の登場人物が出てきます。一人目はマーカス。自分が何をすべきか悩む彼は、カールを訪れ、迷いを告白します。それに対してのカールの答えは、「世界が闇に沈んだ時は、勇気を持って光を呼び戻す者が必要で、お前がそれを担う者なのだ。地獄と向き合え、だが地獄に飲み込まれるな」でした。
 闇夜を終わらせ、暁をもたらす者。そのイメージは、ヨハネの黙示録で最後の審判が終わり、世界が再生したのちにキリストが宣言する「私は明けの明星である」という言葉にも重なります。さらには、「新たな時代をもたらす者(rA9)」のイメージも近いでしょう。
 
 一方で、闇に囚われ、出口を見つけることができなかった人物もいます。(コナーに幻滅し、職を辞した場合の)ハンクです。真面目に仕事に打ち込む警官だったハンクは、理不尽にも息子を失い、自分の存在意義を見失う「魂の暗き夜」に囚われた状態でした。
 それでも、もしかしたら見つかるかもしれない答えを、出口を待ち続けたハンクにとって、アンドロイドの人間性を否定するコナーの行動は、この世界には救いも、変化もないと言っているにも等しかったのでしょう。
 コナー編の主人公はコナーではなく「コナーとハンクのダブル主役」だと私が認識している理由がここにあります。もちろん他のアンドロイドと同じように、コナーが経験を積み重ね、どのような方向にであれソフトウェアを発展させていくストーリーであることは間違いありません。それと同時に、人間不信に陥っているハンクが、コナーという「子ども」を得て、人間関係や社会性を再構築するストーリーでもあると思うのです。
 ただ、コナーは変異体ルートと機械ルート、どちらに進んでも成長したと言えますが、ハンクについては「人間関係・社会性が修復不可能なほどに破壊されてしまったらバッドエンド」になるのは致し方ありません。その上で、神の救い、「魂の暗き夜」から逃れる道を待ち続けたハンクが、その救いを得ることなく「死ぬことに成功」してしまうのが、あのシーンなのだと捉えています。
 

白髪親父と二人の放蕩息子
 ハンクの陰に隠れて地味ですが、この章では地味にレオも見逃すことができません。カールが亡くなっている場合、レオは墓参りに来たマーカスと入れ違いになるだけですが、それでも彼がカールに求めていたのは金だけではなかったこと、本当はもっと別のつながりを求めていたことはわかります。マーカスを見かけた時の態度も戸惑って見送るが、なにか言いたそうにしているといった感じで、単なる憎悪とか軽蔑とは違いますよね。
 ただ、やはり面白いのは、カールが生存しているケースです。その場合、エントランスの鏡の前にある留守電マシン(?)を再生することで、「レオが入院していて、明日退院すること」「レオが入院して意識のない間、カールが付き添っていたこと」「レオは薬物中毒だった自分を反省し、迷惑でなければ退院後に挨拶に行きたいと思っていること」がわかります。
 レオ自身がカールの付き添いを驚いているらしいことと、以前の「あんた(カール)は誰も愛せない」という言葉から、レオは本当はカールと愛情に基づく親子関係を求めていた一方で、カールもレオとお金以外の関係を求めていたことがわかります。
 このエピソードで思い出すのは、新約聖書のルカ福音書にある「放蕩息子のたとえ話」です。この物語では、裕福な父親の元に生まれた二人兄弟の弟が、財産の生前分与を求め、もらった財産をもって旅に出ますが、あっという間に使い尽くして豚飼いに落ちぶれ、あまつさえ自分が世話をしている豚の餌でも食いたいというまでに飢えてしまいます(ユダヤ人は豚を食べませんので、これは「異民族並みの不潔で卑しい生き方にまで落ちぶれた」という比喩です)。だったらいっそ、父に詫びを入れて使用人として受け入れてもらえば飢えなくてすむと考えた彼は、実家に戻って父親に「息子ではなく使用人として扱ってください」と懇願しますが、父親は「息子が帰ってきた!ご馳走だ!晴れ着を持ってこい!」と大喜びでパーティーの準備を始めます。
 一方、これに納得がいかないのは、ずっと父親の元にいて、農作業に汗を流していた兄のほうです。「親父〜、俺はいつも真面目に親父のために働いてるのに、全然ご馳走とか出してくれたことないじゃん?なんでこいつが財産全部スって帰ってきたらご馳走つくんの?不公平じゃね?」そう文句を言った兄に、父親は「お前も弟も同じくらい愛してるし、私の財産は全部お前のものだよ。でも、弟は失われたと思ったのにまた戻ってきた、死んでたと思ったのに生き返ってきたんだから、喜んで当然じゃないか」と答えました。おしまい!
 
 兄の怒る気持ちも正直わからなくもないですが、この話のポイントは「父なる神は、自分への信仰に立ち返った者は暖かく迎えてくれる」という「許す神」の思想にあります。それはそれとして、カールにとって、レオは文字通り「失われた放蕩息子」でした。彼が出奔()したことにはカールの責任もあるわけですし、レオが戻ってくること、あるいはカールとレオの関係が再構築されることは、レオにとってだけでなく、カールにとってもお赤飯炊いちゃうくらいには嬉しいことだと言えるでしょう。レオの訪問を、カールは皮肉ぶっこきつつ歓迎してくれるんじゃないかな。
 それと同時に、カールにとってはマーカスもまた「失われた息子」です。だからこそ、マーカスの「廃棄」後も、カールはマーカスがセキュリティを解除できるままにしておいたのでしょうし、もしかしたら戻ってくるのを期待してすらいたのかもしれません。おそらく、ニュースでマーカスがブイブイ言わせてたのは見ていたはずですから、そういう意味ではマーカスが生きていることはわかっていたでしょうけども、自分の手の届かないところにいるという意味では、やはり「失われて」います。あるいは、マーカスが一旦廃棄されたことを踏まえると、「死んでいた(のに生き返った)」の方が近いかもしれません。
 個人的には、平和ED後はレオ、マーカス、看護アンドロイドの3兄弟とカールでいちゃいちゃしてほしいんですけどね。レオがお兄ちゃんぶって看護アンドロイドに偉そうに色々教えたりしてほしい。そしてちょっと言葉遣いが悪くなってカールが怒り、マーカスが間に入るところとか見たいです。実際には平和ルートではマーカスが忙しくなるし無理だろうけど!

ハッピー・デス・デイ Part100
 さて、タイムスタンプを見るに、この章は2038年11月10日に起きているとされています。これは、かなり重い意味を込めて選ばれた日付です。
 1938年11月10日(正確には9日の夜から10日にかけて)、ドイツ各地で反ユダヤ暴動が起きました。この暴動の主力となっていたのはナチスの私兵団「突撃隊」でしたが、ナチスは「パリのドイツ大使館員がポーランド系ユダヤ人に銃撃されたことに、市民の感情が爆発しただけ」として、襲撃者を捉えることはありませんでした。
 それどころか、暴動を鎮圧するという理由で、ナチスは(襲撃された側である)ユダヤ人を逮捕しました。秩序確立を目指し、ナチスはユダヤ人を逮捕して収容所に送りました。大事なことなので2回(r
 ナチスの理屈だと、ユダヤ人の虐殺とユダヤ人資産(店やシナゴーグ)の破壊は、「民族精神の正当な蜂起」、つまり普通のドイツ人としての愛国精神の発露だったというのです。その「正当な蜂起」の裏には、宣伝大臣ゲッベルスの「世界中のユダヤ人がナチスの党員を殺そうとしている、やべーよやべーよ!!!」という扇動があったんですけどね……。

 この襲撃によってユダヤ人が経営する商店やシナゴーグ(ユダヤ教の聖堂)のガラスが粉々に砕かれ、あたりに砕け散ったガラスの破片が月の光に照らされてまるで水晶のようだった−−と美化されたイメージに基づき、この襲撃事件は「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれるようになりました。
 一晩で、ドイツ、オーストリアとチェコスロバキアの一部を合わせて、破壊されたシナゴーグは250を超え、7500軒の商店が打ちこわしと略奪に遭ったと言われています。道ゆくユダヤ人も暴行され、女性であればレイプを受けて、この日だけで100人近くが亡くなっています。
 この日を皮切りに、ユダヤ人の強制収容と虐殺、いわゆる「ホロコースト」あるいは「ショア」と呼ばれるものが、本格的に始まりました。ゲーム中でもアンドロイドを「リコールセンター」という名の収容所に集めて、大量に処分しているとの言及があります。この展開は、ホロコーストの完全な再現だと言えるでしょう。

 なお、「水晶の夜」を主導した突撃隊(もともとはナチスのイベント会場の警備チームで、食い詰めた貧困層などが多かった)は扱いがめんどくさかったのでのちにナチスから粛清され、権力を失っています。彼らもまた、ナチスに都合よく利用されたに過ぎなかったのです。

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