深読みで楽しむDetroit:Become Human (18) 消耗品か否か、それが問題だ

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

【「命をつなぐもの」 シノプシス】
 マーカスの提案に乗ったジェリコの面々は、生体部品やブルーブラッドを盗むため、港にあるサイバーライフ社倉庫に潜入する。警備をくぐり抜けてたどり着いた倉庫には、大量のパーツのほかに、出荷前のアンドロイドも箱詰めされていた。

命ばかりはお助けを
 この章の英語のタイトルは「Spare parts(スペアパーツ、代替部品)」です。なぜそれが「命をつなぐもの」という訳になっているのでしょうか。
 おそらくですが、訳者はspareの辞書を引いて「命を救う」という意味があるのに目をつけてたのではないかと思います。代替部品と命を救う部品というダブルミーニングじゃないのこれ!というわけでこういう訳をつけたのではないかと。
 ただ、spareが命を救うという意味に使われるのは極めて限定的な状況に限られます。「殺そうと思えば殺せるけど見逃してやった」パターンです。あれですね、悪役に村人が「命ばかりはお助けをー!」って言ったり、逆に主人公が敵の中ボスに「今回は見逃してやる」って言ったりする状況が、「命をspareする」です。シチュエーション上、映画やゲームなんかではよく出てくる表現ではありますが(実際、次の章で出てきます)、今回、その意味に適合するシーンがあったかというと……。ましてや、命をつなぐものという意味でspareを使うことはないと思うんですよね。
 ちなみに、フランス語版ではもっとシンプルに「倉庫(L'entrepot)」です。ダブルミーニングってのは、中途半端な英語の知識に基づく勘ぐりすぎなんじゃないのかなあ。
 
音楽性の違い
 この章では、ジェリコ組の個性というか、それぞれの考え方の違いがわかりやすく提示されているように思います。人間でもアンドロイドでも、味方以外は全員信用しないノース。人間を殺さず、仲間を増やそうと考えるジョッシュ。リスクを最低限にしたいサイモン。ちなみに、移動中にノースを無視してサイモンについていくと、アクションの難易度が若干低いルートを選べるのはちょっと面白いです。ノースに罵られるけどな!
 また、警備アンドロイドのジョン(と出荷前アンドロイド)を「味方にしておきながら放置する」と、復讐として警報を鳴らされ、即時撤退せざるを得なくなるのも面白いですよね。言っとくけど、お前を連れて行くことに賛成してたの、(俺と)ジョッシュだけだからな!そんなジョッシュですが、トラック盗み出しには否定的で、成功しても唯一感動してくれない(ちょっとしか好感度があがらない)という不思議な価値観をしています。学者ロボだけあって、あんまりそういう俗世間のことには関心ないんですかね。その割に、ジェリコに帰ると嬉々として「全員分あるぞー!」とか言ってますけど。
 ジョッシュは多分作劇的に立ち位置が難しいというか、暴動を起こした時のマーカスとは袂をわかちそうなくらいの位置付けにも関わらず、一応最後まで同行してくれたりするわけで、感情値の変化とか行動がたまにブレてたりすることがありますよね。サイモンはサイモンで微妙に影が薄かったり(その割に微妙にサブヒロイン的なポジションにいますが)、この辺りは群像劇とアドベンチャー型のゲームを両立させる難しさなのかもしれません。

芸術と人間性
 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作の一つ「わたしを離さないで(Never let me go)」では、芸術(art)が魂、つまり人間性を表す重要な指標として扱われています。日本語で芸術というのでいかにも創作的な能力のように思われますが、実はこのartという言葉には、もう少し広い意味があります。
 近年話題になっているリベラルアーツ教育というものがありますが、リベラルアーツという言葉はもともと、古代から連綿と引き継がれてきた知性の象徴である自由7科(自由な人間であるために必要な7つの学芸)を指すものです。具体的には、文法、修辞学、弁証法、幾何学、代数学、天文学、音楽です。
 これらは古代ギリシャ時代には、奴隷ではなく自由と権利を持つ市民にとって必要な教養としての学芸、「知的技術」とでもいうべきもので、「工学技術」とは別のものだと考えられていました。一人前の人間ならば、リベラルアーツは一般教養として身につけるべきだし、逆にそれらを身につけていない人間は奴隷階級というわけです。
 ここに至って、再びマーカスがカールから受けてきた教育の特殊性が見えてきます。リベラルアーツを習得することが奴隷と自由人を区別するものだとしたら、カールがマーカスに文学、哲学、音楽、絵画といった学芸を学ばせようとしたことは「奴隷を自由人にする教育」となるわけです。
 この章の最後で、マーカスは「奴隷ではなく、自由な民としてのアンドロイド」という理念をぶち上げるわけですが、これはまさに「奴隷が学芸を身につけて自由人となる」という古代からの西洋の人間観に基づく成長であることがわかります。
 
 なお、19世紀になるとヘーゲルが新たに「人間の5大芸術」として建築、彫刻、絵画、音楽、詩を位置付けました。今日のフランスではこのヘーゲルの考えを踏まえ(詩は文学全般とされる)、演劇が第六芸術、映画が第七芸術と呼ばれています。さらにそれに付け加えて、第八芸術=テレビ・ラジオ、第九芸術=漫画(正確には、日本の漫画なども含むバンド・デシネ=BD)、第十芸術=テレビゲーム、なんてのもあるんですが、第八以降は人によって入れ替わったりします。
 フランスって意外とゲームの地位が高くて、任天堂の宮本茂さんに芸術文化勲章を授与してたりするんですよね。

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