深読みで楽しむDetroit: Become Human (4) 西洋美術史に見るカール・マンフレッドの世界観

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

【「画家」 シノプシス】
 マーカスは主人であるカール・マンフレッドの住む邸宅に戻り、体の不自由なカールの起床と朝食を手伝う。秒針のカールは自らの体について「脆い機械」と皮肉り、いずれくる自分の死に備えるようマーカスに教えさとす。食事を終えてアトリエで作品を作り始めたカールだが、ひと段落するとマーカスに絵を描くよう求める。

服を着て歩く「古き良き時代」
 マーカスがバス停を降りたのは、ラファイエット通り8941番地にあるカールの家の前でした。現在のこの住所はグリークタウンから約12キロ、現在のバスを乗り継ぐと1時間くらいの距離にある住宅街です(そこまでの高級邸宅街ではないようです)。

 入り口の明かりや門構えから、この家は新古典主義の建築であるように見えます。室内の家具も、ミニマリズムや近未来の雰囲気というよりは、19世紀〜20世紀初頭の建築・装飾スタイルに近いものとなっています。そもそも、カールが分類される「新象徴主義」は、19世紀末の「象徴主義」を踏まえたものです。
 象徴主義の代表的な画家にはグスタフ・クリムトやギュスターヴ・モローなどがいます。象徴主義は、それまで主流だったアカデミズム芸術(聖書や神話・古典などを題に取り、空想上の、観念的な美を題材に描くもの)への反発として生まれた芸術スタイルです。同じくアカデミズムへの反発して生まれた印象派が「自分の見たもの、感じた印象をそのまま作品にする」というスタイルだったのに対し、象徴主義は「自分の内なる葛藤や不安を、聖書や神話などのモチーフ(象徴)に仮託して描く」という方向に進みました。いわば、自分を起点に外の世界を描くのが印象派、世界を起点に自分の内面を描くのが象徴派、といったところでしょうか。カールは「新象徴主義の旗手」とされていますので、19世紀の象徴主義画家たちと同様、内面の迷いや不安を既存のモチーフを使って描く作風だったと考えられます。
 
 ところで、現在のカールの作風を見ていると、あまり「象徴主義」という感じはしません。むしろ、極端に青に偏った作風とモチーフの見えない絵画は、ピカソの「青の時代」並みに本来の作風とかけ離れているように思えます。
 ピカソの「青の時代」は、親友の自殺をきっかけに始まった数年間の作風のことで、彼が抱えていた悩みや鬱屈、孤独、不安といったものが、青という色と貧困層という題材に反映されています。カールもまた障害を背負って相当に悩み、苦しんでいたようですから、マーカスを得てその苦しみを絵画の形で消化しようとしていた時期だったのかもしれません。

 もう一つ、些細なことですが、カールの体(よくわかる両腕のほか、鎖骨のあたりにも見える)には、日本のヤクザかよと思わせるくらいの刺青が入っています。19世紀の印象派や象徴主義の画家たちは、当時「わけわからん遠くの異国」だった日本の文化に大きく影響を受けていますから、カールの刺青も彼と19世紀の画家たちをつなぐ共通点と言えます。
 19世紀は、ヨーロッパが無邪気に世界の他の地域を侵略し、無垢な善意と軍事力を持って“劣等民族”を支配していた時代の終盤でもあります。カールが身にまとっている強烈な「19世紀の空気」は、DBHがヒトがアンドロイドを無邪気に支配していた時代の終わりを告げる物語であることの象徴でもあるのでしょう。
 
プラトンとチェスセット
 新象徴主義というからには、カールは当然「象徴」である過去の文学や芸術にも明るいと推定されます。実際に、家のあちこちに書籍溢れる本棚があり(うざインテリの標本みたいな我が恩師によると、フランスでは、知識人たるもの年に200冊は本を読まなければならないそうです)、マーカスが読むことができる本も「オード集(ジョン・キーツ)」「シェークスピア悲劇集」「国家(プラトン)」となかなかの古典ぞろいです。
 ジョン・キーツは19世紀はじめに25歳で死んだロマン主義の詩人で、やや陰鬱な作風や神話・伝説に題をとった作品など、想定されるカールの作風(および、死を間近に感じながら制作に打ち込むカールの心理)によく似た作家性を持ちます。キーツは恋人となったファニー・ブラウンと婚約しますが、結核に冒されていることが判明し、彼女との結婚を望みながら2年後になくなるのです。愛する人を諦めて死ななければならないキーツの悲嘆を、カールはマーカスをおいて死ぬ時が来る自分に重ねていたのかもしれません。
 一方、シェークスピア悲劇集からマーカスが選んだのが「マクベス」です。これは欲望のために人を殺す男の物語であり、繰り返される下克上の話でもあります。また、マクベスが破れる相手は「女から生まれなかった」、つまり帝王切開で生まれた男であるマクダフです(今でこそ帝王切開はよくある出産方法ですが、20世紀中盤までの帝王切開は衛生状況が悪くて母親は死んでしまうことが多かったため、基本的には死んだ妊婦から赤ちゃんを取り出すために使われる術式でした)。アンドロイドもまた「女から生まれていない」存在であり、ルート選択によっては世界を転覆させることを考えると、なかなか示唆的ですね。
 
 プラトンの「国家」は、当時の哲学者たちのなかで善は相対的である(対立するAとBがいたとき、Aにとっての善はBにとっての悪になる、という形で、立場や状況によって善は変化する)という考えが主流だったのに対して、「絶対的な(形而上的な、哲学的な)善」「善の根源」について論じた書物です。
 「国家」にも出てくるプラトンの哲学の重要なポイントの一つに、魂の三区分があります。これは、人間の魂を「命令に従う良い馬(気概)」と「わがままでいうことを聞かない悪い馬(欲望)」および「その2頭をつないだ馬車を操る御者(理性)」の三つの集合体として考えるというものです。欲望を飼い慣らさなければ究極の善や心理にはたどり着けない、という文脈なのですが、この3区分はのちにカントが提唱する「知情意」の概念にもつながりますし、それ以上にDBHの三人の主人公の役割分担(気概=知=コナー、欲望=情=カーラ、理性=意思=マーカス)とも重なるように思えます。

 もう一つ、チェスは西洋において「知性のシンボル」であり、チェスの上手い人間に悪い奴はいないという暗黙の了解があります。
 「ハリー・ポッターと賢者の石」に出てきた魔法使いのチェスを覚えている人はいるでしょうか。優秀なハリーに比べてあまり頼りにならなさそうな雰囲気のあるロンですが、中盤でチェスの優秀な才能を見せ、それが最終盤への布石となっています。西洋におけるチェスの位置付けを踏まえると、この「中盤でちょびっと見せたチェスの才能」から、「ロンは実はとても優秀で、頼りになる味方である」というメッセージを読み取ることができるのです。当然ながら、マーカスが(選択肢次第ですが)カールとともにチェスをするシーンにも同様のメッセージが含まれています。
 
カールは何を愛していたのか
 カーテンを開けてカールを起こし、注射をしようとすると、カールがマーカスの服の乱れに気づきます(暴徒に絡まれていた場合のみ)。この時カールは「アンドロイドを何体か壊したところで、技術の進歩が止まるわけではなかろうに」と皮肉をいうわけですが、日本語ではなぜか「アンドロイドを1体壊したところで〜」となっています。ここの誤訳はちょっと微妙で、「2〜3体」というと他のアンドロイドも狙われている(大局的に反アンドロイド運動の存在を認知した上で、そうした行動が無意味だと皮肉っている)ニュアンス、「1体」だとマーカス個人をどうこうしたところで意味がないという、もっと狭いニュアンスになってしまうのですよね。この作品、単数複数を雑に扱った誤訳が多いな、というのがちょっと残念です。
 その後、階段を降りるシーンで、マーカスが今夜のレセプションとファンレターについて報告した後で、カールの方から「レオから連絡はあったか」と聞いてきます。これはかなり重要ポイントです。なぜなら、カール自身がレオのことを心配していて、連絡を待っているという心理がうかがえるからです。章の終盤で、レッドアイスでハイになった状態のレオがカールを「あんたは誰も愛せない」と詰るシーンがありますが、そのシーンを見て、マーカス編の次の章を見て、さらにはカール生存ルートのレオのメッセージを聞くと、カールがどれだけレオを愛していたか(愛せなかったことを悔いていたか)がわかります。
 個人的には、次のスクリーンショットもレオへの愛情が現れているように思えるのですが、いかがですか?

 朝食のシーンでカールが使うマグカップ。あまりにもカールに不似合いなスマイリーが、おそらく雑な手書き(むしろ削り?)で描かれています。カールの作風はこれじゃないですし、マーカスはもちろんそういうことをやるタイプには見えませんから(そもそも変異前だし)、これを描いた、もしくはカールにプレゼントしたのはレオじゃないかと思うのです。完全に想像ですが!
 
 朝食のシーンをさらに補足すると、デザートとしてイチジクが出ています。前にも触れましたが、イチジクはアダムとイブが「善悪を知る木の実」を食べて知恵を身につけた時、自分たちの裸を恥じて服を作った時の材料です。イチジクは新約聖書にも登場し、「実のならないイチジク(神の救いに背を向けるユダヤ人を指す)であっても、信じて育てるべきだ(神は人間のことを信じて待ってくれている、許してくれる)」という例え話に使われています。イチジクという選択には、カールの人間としての避けられない罪(原罪)と、いつかは訪れるであろう人とアンドロイドの融和という希望が託されているように見えてなりません。

フランス的知性としてのカール
 ここまでさんざっぱら聖書を引用してきておいてなんですが、カールの言動はあまり信心深いものとは言えません。むしろ「私とお前(マーカス=アンドロイド)の違いは物忘れがないこと」「人間は脆い機械だ」など、マーカスの前章で出てきた伝道師の考え方とは正反対に、アンドロイドを人間と同種、延長上の存在として捉えている傾向がうかがえます。おそらく、カールは不可知論者なのではないでしょうか。
 不可知論とは、人知を超えるものは人間には認識できないので、それについては考えることを否定するという立場を言います。古くは19世紀から始まっていますが、近年はある意味ゆるやかな無神論として普及しています(一因として、冷戦時代に「無神論者だ」というと、アメリカでは宗教を否定しているから共産主義者だと見なされたからだということもあります)。福音主義者がアメリカで最も大きい宗教勢力であることには触れましたが、実は現在、アメリカで2番目に大きい宗教勢力は無神論者や不可知論者を含む「無宗教」で、その数はおよそ四人に一人に上る勢いなのです。有名なところでいうと、前回のアメリカ大統領選挙で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダース上院議員が不可知論者です。
 また、フランスはあらゆる国の中で、現在最もアグレッシブに無宗教を推進している国です。フランスではもともと宗教上の争いや、フランス革命後に激化したバチカンとの対立を踏まえて、第三共和制の中でカトリック、プロテスタント、ユダヤ教の進歩主義者と無神論者(フリーメーソン)が「公共空間からのあらゆる宗教の排除(ライシテ)」を定めました。よくニュースで「フランスではイスラム教徒がベールを被れないなどの差別を受けている」と言われますが、実はキリスト教徒の十字架やユダヤ教徒のもみあげ、シーク教徒のターバンも禁止の対象なのです。第三共和制の制度の多くは現在のフランス社会の基礎として残っていますが、当時の入閣者の三分の一は無神論者のフリーメーソンだったことは今では誰でも知っている史実です。ちなみに、本家イギリスのフリーメーソンは加入条件を「なんでもいいから神を信じること」としているので、フランスのフリーメーソンは破門されているそうです。
 フランス人にとって、無神論、不可知論というのはおそらく日本人よりもはるかに馴染み深いものであって、アメリカの福音主義のようなものは極めて遅れた、劣ったもののように感じられていることでしょう。もちろん、信心深いフランス人もちょっとくらいはいます(ラスボスとあだ名された前教皇の写真を「慈愛に満ちた笑顔」って言った人には、流石の私もどんびいたよ)。しかしながら、福音主義の狂気や人種差別などを批判対象に据えているこの作品において、随一の知性派であることを考えると、カールの立ち位置はよりフランス的な不可知論者であることは、ごく自然なことのように思います。

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