深読みで楽しむDetroit: Become Human (26) Do the right thing

はじめに
 本記事はDetroit: Become Humanを最低でも1度はクリアした人向けの、本編ネタバレ満載の内容となっています。さらには本編の内容を直接解説した部分が3割くらい、残りの7割が深読みと邪推とこじつけで構成されています。以上の点をご了承の上、お読みください。

『カムスキー』シノプシス
 多発する変異体事件の本質に迫るため、ハンクはコナーを連れてサイバーライフ社の創業者であるカムスキーを訪問する。カムスキーはハンクには全く関心を示さず、コナーに「目の前にいるアンドロイドを破壊すれば情報を与える」と持ちかける。

責任者、でてこんかい!
 本章の冒頭では、コナーがTVスタジオで死んでいない場合、前の章でクリス(親切な黒人警官)が処刑されたかどうかで序盤のセリフが少し変わります。クリスが処刑されていた場合、ハンクは「クリスは自分の銃で殺された。なんであいつが死ななきゃならなかったんだ」と言いますが、「アンドロイドに殺された」とも「アンドロイドめ、よくもクリスを殺しやがって」とも言わないんですよね。普通、アンドロイド嫌いだったらそっちに思考が行くと思うのですが。そのあたりも、ハンクが「アンドロイドが嫌い」思考を核に動いているではなく、まずは人のことを考えているのをうかがわせます。
 一方、クリスが助命されていた場合、ハンクは「マーカス“自ら”に助けられたそうだ」と語ります。すでにこの時点で、変異体のリーダーとしてのマーカスは認知されているようです……あれ?放送でわざわざ顔消した意味は?警察のみ、そして警察全員に復元した顔と名前の通達が回っているとかそんな感じ?
 マーカスとしては、「通りすがりの人に顔がばれなければOK」くらいの感覚だったのかもしれませんが、復元した顔を警察が公開して指名手配する可能性はなかったんでしょうかね。まあ、どっちにしても程なくしてバレるからあんまり意味なかった気がしますけど。
 
 さて、何人いるかよくわからないクロエに玄関に通されて待っていると、ハンクが「これからお前は"製作者(maker)"に会おうってわけだが、どんな気分だ」と尋ねてきます。回答に関係なく、ハンクは「俺も時々こっちの"創造者(creator)"に会いてえと思うことがある。言ってやりたいことがあるんでね」と続けます。
 この章のタイトルはMeet Kamski(カムスキーとの面会)ですが、meet one's makerというのは慣用表現で死ぬことを意味します(死んであの世に行くから創造主=神に会う、というわけ)。また、makerもcreatorも創造主たる神を指す言い回しであり、ハンクは「自分の創造主であるカムスキーに対面するコナー」という捜査上の状況を、「この世界の創造主である神に面会する死後の世界」と重ね合わせて皮肉っているわけです。

 なお、キリスト教的な概念では、「神に会いたい(特に、神に文句を言いたい)」というのは割と直球で冒涜的な思想です。神は我々人間にはとても理解の及ばないインテリジェントなやり方で世界をデザインしているのであって、一見理不尽に見えることも全ては神の思し召しなので、神を信じて前に進むのが良き信徒の在り方だと考えられているからです。
 同様に、キリスト教で自殺が「唯一の許されざる大罪」であるのは、キリストが「ちょっと死ぬの辛いけど、お前らのこと救っとくね!」と言ってくれた以上、自ら命を絶つのはキリスト(の救済の約束)を信じないことになるから、というわけですね。わけわかんなくても、疑わずに信じなきゃダメなんです。と言うと狂信的に見えますけど、悩むという作業を神にアウトソーシングするというのは一つの手ではあります。
 
 しかしながら、実は旧約聖書では神に向かって真っ向から「責任者出てこいやオラ!」と噛みついた人がいます。ヨブという人物です。
 ヨブというおっさん、とても信心深くて善良で、もう文句のつけようがないくらい立派な人で、しかも財産もたくさん持っているし家族にも恵まれている、最高の人生を送っていました。ところが彼が与り知らないところで、神と悪魔が賭けを始めてしまいます。

神様「ねえねえ聞いてよ悪魔、アタシの信者のヨブってやつがルックスもハートもマジ最ッ高のイケメンでさあ」
悪魔「いうてヨブがお前信じるのって、ご利益があるからだろ?めっちゃ幸せだから神様ありがてえって言ってるだけじゃねえの?」
神様「そんなことないもん!ヨブはぜったいアタシのこと好きだもん!」
悪魔「じゃあ試してみねえ?よブをめっちゃ不幸にしたら、絶対お前のこと信じなくなるって」
神様「それいいね!やってみ?でも殺すのだけはナシね」

 それいいね!じゃねえよ神。やってみ?とかいうレベルじゃねえだろ神。そんなこんなで、神と悪魔のしょーもない賭けのせいで、ヨブは財産は失う、家族は死ぬ、病気で体がボロボロになる、と、むしろ生きてる方がつらいんじゃないかレベルの地獄を経験することになりました。しかし、ヨブはそれでも「だってこれまで神様にいい思いさせてもらったし、不幸の方も受け入れないとね?」と、信仰を守り続けたのです。
 めでたし、めでたし。
 いや、めでたくねえよ!
 
 ほとんどの人から見捨てられたヨブでしたが、ある日、3人の友人が彼のことを心配して訪ねてきます。友人たちは心からヨブのことを心配していましたが、さすがにここまで酷い状況となると、ヨブが何か悪いことをして、神がそれを罰しているのではないか、と考え始めました。
 友人たちに「自分でも気づかないうちに、何か悪いことしたんじゃない?懺悔して、神様に許してもらえば?」と促されたヨブ。しかし、彼は神に誠実に生きてきたことにかけては自信がありました。

ヨブ「俺マジでなんも悪いことしてねーし!ていうか正直生まれた日を呪いたい(=死にたい)くらいだし!神様ってのは絶対正しいはずだろ、なんで俺なんもしてねえのにバチ当たってんだよ!そんな神様、全然正義じゃねえだろ!ざけんじゃねーよ、責任者でてこい!」
神様「呼んだ?」

 出てくるのかよ神!

神様「てかさあ、アンタ、アタシが世界を作った時にそこにいたっけ?あんときの光景、マジ神ってたよねー。アンタあれ見た?見てない?もしかして情弱?じゃあなんで世界の摂理わかったみたいなツラしてんの?態度でかくね?」

 さんざっぱらヨブに上から目線のウザ絡みをしたあとで、神はあれだけの目にあいながらも神の正しさや人知の及ばない偉大さについては絶対に疑わなかったヨブを高く評価して、「なんか思いつきでテキトーなこと抜かしてた友達3人ムカツクわ。腹たったからそいつらにお祈り代おごってもらっといて。じゃあねー」と言って立ち去ります。
 言われた通り、お祈り用の家畜を友人におごってもらい、神様に改めてお祈りしたヨブは、財産も以前の倍になり、新たな家族を得て、とても幸せに暮らしたのでした。
 めでたし、めでたし。
 ……そうかな?
 
 このヨブ記は、「善人は報われ、悪人は罰を受ける」と信じたい私たちの心理(公正世界仮説)に真っ向から挑戦する物語です。実際、世の中は極めて理不尽にできており、善人が必ずしも幸せになれるわけではありません。かと言って、善人だから苦しんでばかりというわけでもない。それこそ、我々の期待をちょいちょい裏切るのが世界であり、現実なのです。
 そして、ハンク自身もその理不尽の犠牲者といえます。同僚たちから尊敬される優秀な刑事であり、愛する妻子を持ち、立派な家も、名誉も手にしていたハンク。でも、その幸せは、彼が何もしていないにも関わらず、唐突に奪われました。だからこそ、彼は「自分の生まれた日を呪い(=死を望み)、神に一言物申したい」という、ヨブと同じような心境に置かれているわけです。
 カムスキーと対面後、コナーに「カムスキーテスト」なるものを仕掛けた彼に、ハンクがあからさまに嫌悪感を示して立ち去ろうとするのは、コナーにクロエを殺させたくない(=コナーのことを完全に人格として信頼しきれてはいない)、というのもあるのでしょうけれども、同時にカムスキーはハンクが期待していたような「善意の創造主」には見えなかった、ということもあるような気がします。つか、第一印象はただの頭おかしい変態野郎だよね、カムスキー。

 余談ですが、旧約聖書の中で「自分の生まれた日を呪った」人物は、ヨブの他にもう一人います。堕落したユダヤ王国の民に「このままでは神が怒って国を滅ぼされてしまうぞ」と警告する使命を与えられた預言者エレミヤです。一応使命としては「ユダヤの民に、悔い改めて神様に誠実に生きなさい、と伝えること」なのですが、エレミヤには「どうせみんなぜってー耳を貸さなくて、お知らせ通り国が滅びるんだろうな」というところまで予見できてしまって、「マジかー死にてえ」となったわけです。あ、国はちゃんと滅びました。予想的中、やったね!
 モーゼがユダヤの民をエジプトから救い出し、ヨシュアが彼らを約束の地(カナン、ジェリコ)に導いて王国を打ち立て、その王国の終わりを予言したのがエレミヤ、というのが、古代ユダヤ王国の大まかな流れになります。エレミヤの予言通り滅びたユダヤの民はバビロンに連行され、奴隷とまでは言わないものの、復興のために強制労働されることになります。いわゆる「バビロン捕囚」ですが、実はユダヤ教の教義はモーゼ自身が作り上げたものではなく、このバビロン捕囚を経験したユダヤ人たちの拠り所として固まっていったと言われています。「約束の地」の滅亡は、むしろ宗教集団としてのユダヤの民を団結させる結果となったのです。
 あ、ごめん、これネタバレだったわ。

師の師といえば師も同然
 カムスキー宅のエントランスには、どでかいカムスキーの肖像画と雑誌、そしてアマンダ(本物)とともに映るカムスキーの写真が飾られています。カムスキーほんと自分大好きなんだな。そして、ここの写真でこれまでもやもやとしてきたアマンダへの疑念が一気に吹き出す仕掛けです。お前誰やねん、と。

 すでに述べた通り、フランス人にとってドイツ(人)は「できるやつだが気に入らない」というイメージがあります。実際にドイツに敵意を隠さないのは高齢者で、40代以下になるとその感情もだいぶん薄れてきているのですが、それでも「ゼミでドイツ人留学生がフランス人学生たちから遠回しにいじめられててどんびいた」という話を聞いたりするので、あからさまにヘイトしないまでも、もやもやとした敵意はまだ残っているのでしょう。フランスの政治家などは、いまだに「ドイツがEUを独裁しようとしている」と発言することがあります。特に、EUにおけるドイツの一人勝ちを象徴する人物として、アンゲラ・メルケルがしばしば反EU主義者の槍玉に上げられています。

 そもそも、フランスもドイツも過去を辿ればカール大帝(シャルルマーニュ)を戴く一つの国でした。それが長い年月をかけて分裂独立して現在の西ヨーロッパ諸国があるわけですが、フランス人の世界観だとフランス・イタリア以西の大陸ヨーロッパは「ラテン文明圏」、イギリスやドイツ以東など西欧の辺境は「アングロ・サクソン文明圏」と大きく二分されています。普通「アングロ・サクソン」というとイギリス(系)のことを言いますが、フランス人の感覚だとゲルマンぽいやつはみんなアングロ・サクソンなんです。てかフランス人よ、お前らもゲルマン民族やろ。。。
 それでもなんだかんだで長年なかよく戦争をしてきたフランスとドイツなのですが、関係が大きく悪化するきっかけは1870年の普仏戦争です。第二帝政に終止符を打つこととなったこの戦いでフランスは皇帝ナポレオン3世が捕虜になるわ、アルザス、ロレーヌという資源豊かな土地を割譲させられるわと、散々な結果で終わりました。まあそのだいぶん前から、フランスは戦闘で勝ったことはないけどな?

 かつて日本の教科書にも載っていた、「最後の授業」という短編小説があります。ドイツに割譲されたアルザスの小学校で、教師が「学校ではドイツ語しか教えてはならないことになり、明日、新しい先生が着任します。これが私の“最後の授業”、君たちが受ける最後のフランス語の授業です。フランス語は美しい。フランス万歳!」とやらかすという、非常にわかりやすく当時のフランス人の愛国心と対独憎悪を描き出した作品です。
 この作品の中で、教師は教え子である主人公たちに対し、「ある民族が奴隷に貶められたとしても、自分たちの言葉を守っている限り、自分たちを捉えた牢獄の鍵を守っているのと同じだ」と語ります。以前、フランツ・ファノンが「カリブ海フランス領の黒人たちが(言葉も含めて)白人化しようとするメンタリティ」について批判したことに触れましたが、奇しくも彼らを奴隷にしたフランス人が、同じ意味のことを逆の視点から言うのです。

 なお、作者のアルフォンス・ドーデ(「アルルの女」の作者)は、フランス反ユダヤ人協会の設立者が反ユダヤヘイト本を発行する際に資金援助を行うなど、極めて強い人種差別意識の持ち主であったことが知られています。息子のレオン・ドーデも王党主義政党アクシオン・フランセーズの有力政治家として名を馳せ、第一次世界大戦が始まると嫌独本「ドイツ魂に対抗する」などを発行しました。とんだクソ野郎じゃねーか!
 ちなみにフランスでは、長年、アルザス語、ブルトン語、カタラン語、プロヴァンス語など各地の方言(といっても、周辺国の言語の影響を受けたほぼ別言語ですが)が長年にわたって弾圧され、学校どころか公共の場での使用が一切禁止されていたりしました。1966年までは、ブルトン語風の名前をつけることすら禁止されていたのです。
 近年は学校で方言教育が強化されるようになったのですが、それでも2018年に「子供にブルトン語の名前をフランス語らしからぬスペルでつけるの禁止」の判決が出たりと、統一文化の国フランスと民族アイデンティティの問題はまだ解決したとは言えません。とりあえずドーデ先生は土下座してどうぞ。
 
 だいぶん話がずれました。
 普仏戦争(およびその後の愛国主義者の扇動)で盛り上がったドイツ憎しの感情は第一次大戦の講和によって一旦は落ち着きますが、その後ナチスの台頭とフランス侵攻により一気に悪化します。フランス軍は例によってあっさりボロ負けし、親独のヴィシー政権が成立しますが、イギリスに亡命したシャルル・ド・ゴール将軍が「自由フランス」を旗揚げし、対独・対ヴィシー政権レジスタンス活動を呼びかけます。
 当然のことながら、フランス国内にも積極的・消極的にドイツに協力した人たちは多かったのですが、フランス人の脳内では「我々は残虐極まりないドイツ人と徹底して戦いました!えらいね!」というコウペンちゃんの褒め言葉みたいなレジスタンス神話が刻まれ、ホロコーストによる大量のユダヤ系フランス人の犠牲と相まって、「ドイツ=悪、フランス=正義」という思い込みにつながっていくのです。

 カムスキー邸の写真で突然現れるリアル・アマンダと、明らかにドイツ語系なその名前。そして、カムスキー本人の何企んでるのかわからない態度。プレイヤーの疑念を燃え上がらせるには、十分すぎるほどの燃料と言えるでしょう。
 
Do the right thing, you motherfucker!
 それにしてもカムスキーですよ。コナーに対して「情報欲しいんでしょ?撃っちゃえよ、ねえ、撃っちゃえよ」と言いつつ、撃つと「ないかー(Test negative、陰性)」と言い放って変異体一掃につながる情報をくれますし、撃たなければ撃たないで「お前変異体じゃーん」といじってくる。これだけだとアンドロイドの変異に好意的な様にも見えますが、全員頓死エンドでは「もうアンドロイドが変異することはないんで」とか言い切っていたりと、必ずしも変異するアンドロイドを目標としていないようにも見えます。
 結局カムスキーは面白ければなんでもいいというか、自分の知的好奇心を満たしてくれる存在が欲しいだけなのかもしれません。そういう意味では被造物たるアンドロイド(や、アンドロイドの中の人間性にこっそり共感しているハンク)からすると、「何考えているかわからない理不尽な神」と言えるのかもしれません。こういう、イミフ理論で動いてるくせに、追求すると逆にウザ絡みしてくる神、どっかで見たぞ。
 
 ところで、コナーにとって「クロエを撃つ、撃たない」の選択肢には、どの様な意味があるのでしょうか。
 大前提として、コナーは「変異体の謎を突き止める」という大目標、プログラムとしてのゴールを設定されています。この枠の中での判断は、「変異体の謎を突き止める」というゴールに対して有効か無効かという基準に基づくものであって、善悪(right / wrong)というよりは正誤・正負(positive / negative)の範囲です。
 しかし、クロエを撃たない/撃てないコナーの場合、この大目標より上位の規範として「クロエを殺さない(アンドロイドも含め、殺害を行わない)」が割り込んできた、ということになります。文学的に言うならば(カーラやマーカス同様)善悪の概念に目覚めた、ということになりますが、技術的に言うならばコナー自身が自分の行動プログラムを書き換えた、ということです。
 DBHのキーワードは「シンギュラリティ」であり、DBHと共通点の多い仮面ライダーゼロワンでもアンドロイド(ヒューマギア)が自我に目覚めることを「シンギュラリティ」と呼んでいますが、実は厳密にはシンギュラリティはAIが自我に目覚めることではありません。本来は、単に「人工知能の計算能力が人間(人類全体)を超えること」を意味しているだけの言葉だったのです。
 AIの計算能力が高まり、かつ自律的にプログラムの修正・改変ができるようになれば、いずれAIは人類よりも優れた知性になるだろう、というのがシンギュラリティ仮説です。逆に言えば、計算能力だけでも、自律性=変異だけでもシンギュラリティは起こりません。DBHでいう変異はシンギュラリティそのものではなく、シンギュラリティ発生の前提条件の一つと考えるべきでしょう。

 さて、カムスキー邸を退出した後のやりとりで、ハンクはコナーがクロエを撃った場合は「あの子(girl)」とクロエを人間・人格扱いしますし、逆にコナーが撃てなかったことに自分で動揺している様子を見ると、「正しいことをしたんじゃないか(Maybe you did the right thing)」と慰めてくれます。
 この「正しいことをする(do the right thing)」、合理的なことではなく倫理にかなった、正義の行いをするという意味です。言い回しとしては日常的な、ありふれたものですが、しばしば社会正義を追求する局面でも使われます。もちろん、人種差別を撤廃しろというニュアンスで使われることもあります。現在各地に波及しているBlack Lives Matter運動(BLM)もまた、do the right thingを求める動きの一つと言えます。
 
 そして、人種差別を題材とした映画を多く制作している米映画監督スパイク・リーの出世作のタイトルが、一文字一句違わぬ「Do the right thing」です。この映画、ニューヨークの下町でさまざまな人種と差別が入り乱れる物語なのですが、ほとんど全ての人が善意で、平和な暮らしを望んでいて、正しいことをしているつもりなのに、皆どこかにダメなところがあり、誰かに差別意識を持っていて、ちょっとした行き違いがきっかけで全てが壊れてしまう、社会の危うさを描いています。
 映画の最後では、暴力は無益だと否定するキング牧師と、自衛としての暴力は知性だと主張するマルコムX、人種差別撤廃のために戦った二人の偉人の対照的な発言が引用されます。カムスキーは「まもなく戦争が始まる。お前はどちらにつくのか」とコナーに問いかけますが、この戦争において(コナーではなく)マーカスが取る二つの選択肢は、奇しくもここで引用されているキング牧師とマルコムXの主張に綺麗に対応していることは、注目すべき点かもしれません。

 「Do the right thing」は答えのない映画です。物語の中で提起された問題に解決が与えられる訳ではなく、かといって全てが悲劇的に終わるのではなく、小さな悲劇と日常の再来で幕を閉じます。正しさとは何か、自分が何をすべきなのかは、映画を見た私たち自身が考えなければなりません。つまりは、DBHの後半のマーカスとしての選択に、私たち自身が、自分の人生の中で向き合っていく自覚を持てということです。
 物語の中では、マザファッカ職人ことサミュエル・L・ジャクソン演じるDJが、そのイケボを駆使して毎日、町の人々に呼びかけます。マザファ……じゃなくて、目覚めよ、現実と向き合え、「Wake up!」と。あれ、この言葉、どこかで出てきたな?

 映画Do the right thingには、現在のBLMに直接つながる描写も出てきます。現在、Amazon Prime Videoなどでも見られますので、ぜひ一度ご覧になってください。

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