どげんかせんといかん!
カオスと化した世界の未来はどこへ向かうのか?!
そこは「精神世界」「スピリチュアル」「自己実現」の世界に共振・吸収されているように思います。
「宗教的な目覚め」「覚醒」「超越」「アセンション」「悟り」のように、精神や魂の体験に対する欲求はこの30年ほどで大幅に高まり、急速に拡大しているように感じていました。
これまで科学や社会経済の世界からは疎ましく敬遠されていた精神世界ですが、少しずつですが穿った見方が取り除かれつつあり、心に響く癒しのメッセージとして影響しつつあるのではないでしょうか。
ところが最近になって、特に「スピリチュアル」な世界のエントロピーが増大しているのではないか?!と感じているのです。つまりこれまであった「目に見えないが確かな手応えとしてあった精神世界の理」は、次第に秩序から無秩序へと向かっているのではないか?ということです。
精神のカオス化だとしたら本末転倒です。
精神は意識や無意識や世界を遥かに超越したとても崇高なものです。
Do not think, do not try to feel, just being yourself.
もともと「精神」とは、「道(Tao)」であり「光明」「霊妙」なものであり、宇宙のはるか彼方までこだまして他者に影響を及ぼす一つの真理であり、永遠です。
精神的な悟りや超越・覚醒を体験するために、あるいは物質的肉体的次元から欲望や世俗感覚や思考から自分を清めるため、「スピ」世界は個の精神に自ら苦行修養を課すように仕組まれてしまった。
ある時点で「精神性」から崇高さがなくなった。それは精神の失楽園・失墜です。
「スピリット」が宗教化し、「スピリチュアル」は商業化しています。さらに「メンタル」という言葉では、精神の病という名称に毒化されたため「薬依存」が生じています。
精神という言葉の尊厳も崇高さもなくなり、今や「精神」はスピリチュアル系の精神世界か、オカルトか、メンタルヘルスの精神科が主役となる経路をたどらされてきていて、ついには「精神」はカルト化し他の精神を支配しようかとするような、愚かで淺ましい悪の餌食となっているのもまた否めません。
無知蒙昧なスピ系住人も増加しています。「覚醒」や「次元上昇」を目的とした不協和の犠牲となった魂は、行為という労苦の先に得られるというカルト宗教の餌食となり、その目的を達成するためにさらにはまっていく。
その人が元々もっていた崇高な精神を「スピリチュアル」のために手放し、メンタルヘルスに問題あり。と判断されて精神科医や薬剤開発会社の良きクライアントとなる。
そんなふうに無秩序化する現象を見ていると、なんのための「精神世界」なのかと悲しくなります。
精神や宗教など、解明できないような心や魂や真理の世界は、もとは学ぶという類の分野などではなく「感じる」「体感・体験する」という神聖な領域の知恵や神話の伝授です。
そこが完全に抜け落ちて崩落してしまった!
・宗教の意味は、昔のようにお寺参りをするとか、葬式をするとか、そんなことはどうでもいいんだ。理性や科学で宗教がどうとかいう問題じゃなくして、1年は1年よりよくする。今日より明日をよりよくする。そういう考えが大事なんだ。宗教は人間のいる「そのところ」にあるのだよ。
鈴木大拙座談集第1巻「人間の智慧」より
鈴木大拙の精神を読ませていただくと、心が本当に穏やかになれますし、背筋がピンと伸びるような感覚になり、精神が豊かになれます。
「宗教は人がいるところにある」
この言葉は「精神」にも置き換えられると思います。
何もスピリチュアルなことなどしなくても、精神修業や学びをしなくても、ちょっとくらい精神が痛んで凹んでも、「わたし」「あなた」がいて、ちゃんと明日をみることができたら、そこに崇高さは戻り、愛を感じ、神々の臨在を感じられるようになる。
それが本来の崇高で尊い「精神」が宿る「場所・人間」なのではないでしょうか。
精神の失楽園から脱出しなければ、たとえ何百冊の精神世界についての本やセミナーをうけても、あなたの精神は失墜したまま。になるのではないか?!
マイスター・エックハルトは「多く持てば、それだけ所有するものは少なくなる」と述べているし、マハトマ・ガンジーは「文明の本質は欲望の拡大にあるのではなく、欲望を意図的に、かつ自ら進んで捨て去ることにある」といいました。
私たちの新しい文明が、より少ないことは、より豊かなことだ”という「閉じた系の低エントロピー」へと向かうことは良いことです。しかし「自然にまかせておくだけでは秩序は回復されない。」そうエントロピー増大の法則が教えてくれているように思います。
スピリチュアルな精神世界もまた政治と一緒で「どげんかせんといかん!」です。
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