私はメンタルが弱い。だから、就活をする。

 3月1日。ついに2020年卒の就活が解禁されたらしい。ちなみに私は2020年卒業見込みの大学生なので他人事ではない。

 実は私は大学2年生の終わりまで所謂「就活」をする気はなかった。
 公務員試験に絞り、万が一落ちたら闇に飲まれるつもりだった。
 私が就活をする気がなかった理由は、自分のメンタルが理科の実験で使うカバーガラスのように脆いことを知っていたからだ。そんな割れ物のような心を抱え込んで、うわさに聞く就活という名の正解のない戦争を生き抜けるとは到底思えなかった。

 文系は考えることしか能がない。そんな風に考える私はガチガチの文系であり、文系の例に漏れず自己分析など4歳のころには始めていた。
 その結果、私は就活は自分に合わないだろうということを中学を卒業するころには分析し終えていた。だから、両親にも親戚にも「自分は公務員になりたいのだ」とよく話していた。
 これは今だから言えることでも何でもなく、当時から私は就活からの逃げとして最も手頃だと思われる公務員を将来の夢として選択していることを自覚していたし、それで良いとも考えていた。それこそが最善であると。

 私は人生で失敗らしい失敗をしたことがない。こう言うと自慢のように聞こえるかもしれないが、自身の限界を超える目標を設定してそれを乗り越え続けたという意味ではなく、目標設定の時点で自分が乗り越えられるであろう目標しか設定してこなかったという意味だ。この二つに決定的な差があることは言うまでもないだろう。
 そして、幸運なことに自分にクリアできるであろう目標設定を繰り返すだけで、両親からの期待には最低限ではあるが応えられてきた。
 だから、私に対する親戚の評価は底抜けに良好で居心地がよかった。
 安定志向で真面目で問題を起こさない良い子。それが私が「私」としてデザインした自己像であり、すぐに他者が望む「私」にもなった。当然だ。客観的に見てそのような子供に最も市場価値があり、主観的に考えてもそのような態度が最も合理的に生きていけるはずだという分析結果に従ったのだから。むしろ好意的に受け入れられなければ困惑する。

 そんな私が唯一無茶な目標設定をすることができたのはゲームだけだ。ゲームならいくらでも失敗できる。リスクリターンを計算に入れずに目標を立てても怒られる心配がない。だから私はゲームが好きだった。要するに臆病者だったのだ。
 正直ゲームの内容それ自体に快感を得た記憶はあまりない。ただ無謀な目標を設定してそれを達成するために試行錯誤してみることが快感だった。それが私にとってはゲームでしか味わうことが許されぬ快楽であったにすぎない。
 私が普段「ゲームは好きじゃない」と言っているのはこれが理由だ。私がゲーム好きを名乗るのは本当にゲームが好きな人たちに失礼であることが分かると思う。

 私には綺麗に整形された「私」しかなかった。そして、それを苦に思うこともなかった。

 だが、大学2年生も終わろうかというある日のこと、転機が訪れる。と言っても何か特別なことが実際に起きたというわけではない。私はもちろん神様だって昨日と変わらぬ今日が続くと確信していたであろう朝に突如私は公務員試験を受けないことと、就活をする決意を固めたのだ。

 私の自己分析の中には不穏なワードはほとんど出てこない。上述した通りそんなワードが出てこないようデザインされたものが私だからだ。だが、その中に一つだけ不穏なキーワードが登場する。それが「破滅願望」だ。

 もう思い出せないほど昔に、私は自分の中のドロドロしたものを一つのゴミ箱の中に放り込んで蓋をした。そうして残った綺麗だと思われる物を組み合わせて自分を作り上げた。でも、入れ物であるゴミ箱だけは処理できなかった。ゴミ箱は常に視界の端にあった。そして、そのゴミ箱に付いている張り紙にはいつ見ても「破滅願望」と書いてあった。

 私は平均台の上を歩いていた。決められた道を決められた通り歩く。降りるという選択肢はない。それは降りたのではなく、足を踏み外したのだ。そういうルールだ。
 小学生の間は習い事と塾で誤魔化せた。中高の間は受験勉強に追われることで誤魔化せた。大学2年生までは受験のストレスを遊んで発散することで誤魔化せた。でも、大学3年生を目の前にして初めて私の足元から平均台が無くなった。地に足を付けているのだから、足を踏み外す心配はない。足元ばかりを確認する必要がない。だから顔を上げた。最初に目に飛び込んできたのは、いつぞやのゴミ箱だった。遥か昔の私が無意識に仕掛けた時限爆弾は、制限時間を迎えるという形で弾けた。

 何度も言うが、私は自分の中に破滅願望があることを理解していた。だが、不思議なもので破滅願望を持っているからと言って、破滅に向かって積極的に舵を切ろうとは思わないのだ。あくまで自然に、自分の手には負えない形でどうしようもなく破滅することを望むのだ。それ故に無視することもできていた。
 しかし、安定を敷き詰めるように生きていた私は、それ故に大学2年生の終わりというタイミングで破滅へと舵を切らざるを得なくなった。
 何故か?
 簡単である。社会に出てしまえば、その破滅願望が叶う時はすなわち本当の破滅だからである。もし山も谷もなく公務員になれたとして、仕事をしていく中で破滅願望が肥大化したり、形を変えて表出したらその時はどうなるのか。その危険性を「私」が見逃せるはずはなかった。

 こうして私は人生で初めての失敗をして、且つその傷を最小限に留めるために偶然ではなく、必然的に就活をすることになったのだ。
 自分で言うのもなんだが、明らかに矛盾している。ポケモンの新作タイトルがあんなことになったのはおそらく私のせいだと思う。

 あまりに情けない動機であったために、諸々の事情はほぼ伏せる形で両親に公務員を目指すのをやめて就活をしたいということを報告した。突然すぎて、母は泣いたし、父からは諭された。だが、私にとってのっぴきならない事情であることは理解してもらえて、今は応援してくれている。
 理解のある両親の元に生まれたことは私の人生における最大の幸福だ。もしも私のような人間が就職することができて、お給料をもらうことが出来たなら、両親を旅行に連れていきたい。これが今の私の夢だ。

 そして、私自身最初は以上のような妙な経緯から就活を決意したが、一年経過した今はやってみたいことや、やらなくてはならないと思うことも見つかって、大学2年生のあの日よりも将来が楽しみになっている。

 成功してもアド、失敗してもアド。
 これが逃げ続けてきた私が挑戦するために必要だった逃げ道の名前である。もしも、就活に不安を持っている人がいたら、こんな不純な動機と幼稚な対策で就活に臨む莫迦もいるのだということを心の支えにして欲しい。

 それはそうと、日本の就活はやろうと思えばどこまでも行けてしまう構造なのがなんともダサい。そんな精神構造を肯定しても、企業に入って安定を得た後で死ぬほど怠惰に生まれ変わるか、そのまま突っ走って過労死するだけなのではないのだろうか。やはり本気を出すならゲームだ。

 未来の私がこの日記を読んだら怒るだろうか、呆れるだろうか、それとも懺悔するのだろうか。
 思ったよりもあっけなく「私」は変わってしまうものだと身に染みて分かったので、気が変わらない内に証拠として残しておくこととする。

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