不愉快な創作

 いつものようにTwitterを眺めてたら電波を受信してしまったので仕方なく書きます。本当に仕方なくね。

 一応この件に対する僕個人の感想を述べておくと「不幸な事故」って感じ。道路を歩いてる人と道路を歩いてる人が曲がり角で衝突したのを傍から見てる気分。それ以上でもそれ以下でもない。
 ただ、こういう形で報道されてるのはアンフェアだなとは思う。「四肢を切断された女性が犬の格好をしている絵」という文字列はその作品を完璧に表せてるはずがないけど、この記事を読んだ人は各々なんとなく程度が分かった気になって攻撃できちゃうからね。誰が悪いってわけじゃないけど、アンフェアだ。

 ここから先はこの件に限った話ではなくなる。所謂「不愉快な創作」に対する世間への風当たりは一定以上の強さを維持していて、時折より強くなったりするように思う。その根底にはおそらく様々な心象が渦巻いていて一口にまとめることは難しいだろうから、今回はどうして「不愉快な創作」が存在するのかについて個人的な見解を書くよ。

 芸術に対して人が取れるスタンスは大きく分けて二つあると思う。一つ目は「分からない」というスタンス。二つ目は「分かった気になる」というスタンス。
 勘違いして欲しくないのは分かった気になってる人が面倒くさいとかそういう話をしたいわけじゃないということ。別にどっちのスタンスも間違ってないと思うし、どっちのスタンスも厄介であることに変わりはない。ここで言いたい唯一のことは芸術を隅から隅まで理解している人だけは存在しないってこと。
 これは芸術を人間の内面の発露だと捉えれば結構簡単に腑に落ちるんじゃないかと思う。自分の両親でさえ何を考えているのか分からない時があるのと同じことだ。

 だから、こと芸術に関して言えば誰かの意見さえ聞いておけばオールオッケーって話にだけはならない。
 例えば過度の性差別やレイプなどの忌避すべき性的描写はたとえ芸術であっても避けるべきって意見と、あくまで創作なのだから性的描写にだってブレーキをかけなくてよいという意見は性質としてどちらも理を持っているし、一人の人間の中に同時に存在していても矛盾しない。
 そして、そのようなフレキシブルな在り方こそが芸術の本質の一つであると考えている人間が所謂反社会的な「不愉快な創作」を好んで創り出し、それを発表するにふさわしい場を設けて(ゾーニングは大事だね)問いかけとして発表し続けている。
 つまり、「女性の手足を切断して犬の格好をさせる作品」を発表しているからと言って、イコールその作者が猟奇的な性癖を持っていたり、女性を蔑視しているとは限らない。むしろ「社会に対して芸術が取るべきスタンス」に求められる形で手が勝手にそういう作品を生み出しているようなアーティストも結構いるんじゃないかと思う時もある。芸術を作っているというよりかは芸術に作らされているみたいな感じだ。操り人形的なね。

 芸術を内面の発露と捉えてみるという話を上の方でしたけど、もっと言えば人間の内面がその人自身のみの要因で形作られることは稀である以上、自分が気に入らない作品が発表されているということに関してはもっと曲線的なアプローチを試みるべきであるという話にもなる。問題の原因はその作品と作者の内部以外にも存在する可能性のほうが高いと言えるからだ。
 信号が赤になっているせいで横断歩道を気持ちよく渡れないからといって、信号機をぶち壊そうとすれば後々車に轢かれるリスクを増やすだけだ。

 じわじわ脱線してしまったので話を元に戻すと、このようにどちらか一方が正しいとは断言できないことを前提に二項対立的な意見を戦わせることができる思考実験場としての芸術の有用性はもっと広まってほしいなと思う。それが今起こっている芸術作品に対する価値観のすれ違いを解消するポイントの一つになると感じているので。

 現実では調和こそが美徳とされると思うけど、芸術では調和と同じくらい不調和も美徳と判断していい。不愉快な現象の不愉快さを作品として切り取って大事にしてあげられる。そういうあたたかさが芸術にはあると思うよ。僕はね。

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