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劣等感が生まれるのは特定のコミニュティに依存し世界が完成して閉じてしまっているから

わたしの劣等意識は、たぶん、小学生の頃からもくもくと大きくなり始めた。

最初は先生に、そして友達に、認められることだけを第一に考えてきた。
そのうち、自分の好きなことを貫いている姿を、個性的だねとか変わってるねという言葉以外で、誰かに肯定してほしかった。

そのあとも、人と比べることでしか、自分の立場を自覚できない日々が続いて、「どうしてそんなに自分に自信がないの?」と意外に思われることも多々。

誇れる経験なんてない。誰しもがわたしの上層部からこちらを見下ろしている。

そういう穴倉から見上げるネズミ的な、自虐的なイメージを勝手に作り上げていたように思う。
そこまで自分を虐げて、何がしたかったのかぶっちゃけ今はよく分からないけれど、こうした醜い劣等意識は、ただただ自分をみじめにするだけで、底上げしてくれることはなかった。

同時に、劣等意識の負のスパイラルに陥ったときの共通点にも気づいた。

それは、決まり切ったコミニュティや人との間でしか自分を評価していないし、生かしていないということ。

もう少し具体的にいうと、仲良しグループが世界の中心で、その中でどう見られるか、どう評価されるかが自分の本質になるという考え方。

一対一でもいい。彼、彼女にこう見られたいという自分の理想がうまくいかない時、見ていて欲しいのに彼らの注意がわたしだけに向いていない時、ふつふつと劣等意識が芽生える。
評価されないのは、気づいてもらえないのは、わたしがダメだからだ、という思考のズレが起きる。

たぶん、こうしたコミニュティが、ホームになれば、過剰な劣等感は自然と薄らいでいくのだと思う。
実際、自分の環境を俯瞰すると、途端に世界は広がりを見せ、自分がいなくても世界は難なく回っていく様子に気づけば、あっという間にコミニュティへの執着が消える。
すると同時に、比較対象も消えるから、劣等感を抱く火種がわたしの中からなくなるのだ。

いつまでも弱いくせに強がりだから、ありのままで居られる場所なんて、ほぼ皆無だとしても、それでもこの中の人と話して、いっしょにいるだけで充電できる、ような、空気があれば別の世界でも生きていける。いろいろな基準に揉まれて、試行錯誤することを楽しめる。
そもそも、わたし以外は全員他人なんだから、思うようにいかないことの方が多いのに、それを自分の理想のストーリーに当てはめて優越感や安心感を得ようなんて考えがすでに甘い。

まだ、時々、油断すると生まれそうになる、劣等意識。それを絶つには、ほどよい距離感と余白が必要。わたしは特に、思いを乗せたらどこまでへも一直線になりがちだから、寄り道を許せるだけの余裕は、自分でコントロールしなくちゃいけない。

その辺の手綱の握り方、やっと少し、調子が読めてきたようだ。(キューバありがとう!)

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