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物語の強度でしか勝負できなくてもあなたの人生はうつくしい

他人の視線なんて放っておけとは言うけれど。誰が何を言おうと気にするなとは言うけれど。

見えてしまうし聞こえてしまうし、求めていないのに入ってくるし。

情報の粒子はどんどん小さく大量になって、おだやかだった生活に余計な重みを積んでゆく。

わたしが以前、友達に話した同じ台詞が、有名モデルのつぶやきで一気に賛同を集めて拡散されていた。

わたしの台詞は目の前の友達にすら、届いていないように見えたのに、彼女のたった100文字そこらのテキストは、何万人もの心をつかむ。

その言葉の伝達速度、言葉を受け取るときの震度。

どこでどうして違ったの?

誰も知らない、誰にも聞けない、声にならない声がわたしの体の中で跳ね返る。

言いたいことはいくつもあったのにそれらが形を帯びる前にかき消されて、わたしは元来、無色透明で誰にも見えていないみたい。

「伝え方が悪いのよ」と、半ば呆れて諭される。

「言いたいことがあるなら相手に分かるように言わなくちゃ」と子どもを納得させるように肩を抱かれる。

無邪気なだけで届かなくなったのは、いったい何歳(いつ)から?

物語の強度が、言葉の信頼度にかかわるなら、物語るほどでも無いわたしの言葉は一生誰の耳にも届かない。

誰も彼も、美しく完結かつ切実に、物言いができると思ったら大間違い。

物語(ストーリー)がなければ、発言してはいけないの?

誰もが共感するような、洞察力とひとつまみの意外性がなければ、わたしの人生は、取るに足らないものなの?

道化になる覚悟もないのに、おかしげに背伸びして自己主張しようものならメッタ刺し。

かといって、ダンマリを決め込む忍耐もない。

戯言だと笑われようと、笑われることすらされずに空気のチリみたいに見えているのかいないのか届いているのかいないのか分からないような存在でも、いつか光がさしたとき、キラッと一瞬光るのを誰かが見過ごさないでいてくれる奇跡が1ミリでもあるならば、そのあるかないかの奇跡を信じていることくらい、誰も邪魔する権利はない。

わたしの声が、他の大きくて優美な声にかき消されて、全然誰にも届かなくても、同じ孤独を分かつ透明人間に会えたら届く速度が変わるから、その合図を待っている。

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