見出し画像

気分にあう、みたいなこと。

いそがしくなってきた。

いつも? まあまあいそがしい。

でもいまのいそがしさは、ちとタイプが違うのサ。

来年から、何するのってハナシに、ぼちぼち片をつけなくちゃねというタイプの其れ。

心を亡くすいそがしさじゃなくて、昂ぶって、ついつい走り出したくなっちゃうようないそがしさ。

こういうときは「いそがしそうね」と労われるよりは「次何をするのかな」と一緒にわくわくしてもらえるとせっかくの昂りが殺されなくてとっても救われるので、何卒。

状況としては心理的に追い詰められているときと似ているのに──たとえばまともに三食ごはんが食べられないとか──ふしぎてしんどくないことって、ある。

こんなことを書くと「またそんな不摂生を!!!!」と自分ごとのように案じてくれる友人知人の顔がありありと浮かびますが、無茶苦茶な働き方・動き方はせず「命大事に」が最優先。ですので無理はしません。

いわゆる“ハイ”な状態だから、長続きしない昂りなのだ。

同じいそがしさでもタイプが違う。

その違いはもはや、気分の違いであって、恐怖によるいそがしさか、楽しさによるいそがしさでは、モチロン違うわけで。

この“気分みたいなもの”への嗅覚って、だいじだなあと思うのだ。

今のわたしがいそがしそうにしているところへ「大丈夫?休みなよ?」というアドバイスは、もはや馬の耳に念仏でしかない(実際言われたらうれしいかもしれんが)。

けれど本当に精神が擦り切れるくらいヘトヘトな時に同じこと──「大丈夫?休みなよ?」というアドバイスは涙が出るほど染み入って「うん休む」と素直にいうことを聞くことだって、ある。

これと同じように、わたしが誰かと/なにかと/時代の雰囲気みたいな抽象的なもの/と、向き合うとき、この“気分みたいなもの”を嗅ぎとる力が、ものすごく、そのあとの言動に影響するなと、ぼんやり感じたのだった。

まあ、それを言語化できるのがコピーライターだったり、企画として成立させるのが編集者の仕事だったりするんだけども。

大事だと思うからこそ、その気分のサンプルを集めたりだとか、嗅ぎとるand可視化する実地訓練を重ねられる環境を求めている。

だから自然、いそがしくなっちゃうんだけども。まだ苦しくないから、大丈夫。

ただ、時々「あ、わたし言うてアラサーだわ」ということを思い出すので、二度目ですが無茶苦茶はしない。

したとしても無茶くらいで留めて自分を使い捨てないように、したい気分。

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。