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“共通言語”がほしかった

音楽は、国境を越える。

スポーツも、国を超える。ボールはともだち。一個あれば、何歳だろうとどこ出身だろうと蹴り合えばゲームができる。

漫画やアニメも、日本語であろうと関係ない。どんどん国を超え海を超え、性別を超え、ありとあらゆる壁を越える。

わたしも、そういう“共通言語”がほしい。

有無を言わさず、いろいろなバックグラウンドをとっぱらって分かち合える何か。

英語は其れではない。というのは、たぶん一度海外に行ったことがあるひとならよく分かると思う。

そういう、入口のツールではなく、お互いの懐を探る必要もなく「分かるよ」と思える、何か。

わたしにとっての“共通言語”は何だろうと、ここ一年くらい、ずっと考えていた。あなたとわたしの“共通言語”。理論を組んで理解するよりも早く、感覚で「それそれ!」と共鳴できるもの。

なぜ、“共通言語”がほしいのかな? どうして、わざわざ海を越えたところで共鳴したいと思うのかな?

なぜだろう。

わたしは感情や出来事を、誰かと分かち合うということが大変に苦手なのだということも、最近自覚した。

“共通言語”があるというのは、わたしが「ふつうに好き」「あたりまえに惹かれる」「日常的に考えていること」を共有できたという証拠になる。その、何気なく、特別ではないけど大切なものを、誰かと分かち合いたいのかもしれない。

あなたになら、これをぶつけても大丈夫。それを確認できるのが“共通言語”。“共通言語”という、同じ世界、価値観、好みが重なれば、分かち合おうと腕を広げる勇気が、少し出そう。

海を越えて、それを求めるのは、わたしがちょっとバカだから。意識的に外を向いていないと、ついついいま住んでいる場所、そこで起きていることが、世界のすべてだと思い込んでしまいがちだから。

でも、そうじゃないんだって、思い込みたいのかもしれない。ここで起きていることはすべてじゃないと。遠く離れた国の戦争は、どんなに悲しんでも自分ごとにはできないけれど、起きていることには目を凝らしていたい。

“共通言語”は、国も文化も越える。同時に、生々しく相手の国の歴史やバックグラウンドを突きつけられることもあるけれど、それは仕方がないし、共通言語を共有するために必要なプロセスだと思う。

音楽ひとつとっても、各ジャンルで生まれた背景がある。ジャズやメタル、演歌やパンク…わたしはたいして詳しくないけれど、それらはすべて、発祥の地の歴史と関係している、はず。

さてさて、わたしにとっての“共通言語”。これが見えてきたら、世界がぎゅっと濃縮される。それ以外のものは、脱皮した蛇の皮みたいに、ずるりずるりと、抜け落ちていくでしょう。

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