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「名前を呼ぶ」という魔法

立花実咲、というのがわたしの名前だけれど、実咲と呼ばれることはあまりない。そして、だいたい初対面のひとは特に、「美咲」と表記を間違えられる。「いや、わたしは美しくないほうで、真実の方です」などと自虐風に訂正したことも、一度や二度ではない。

あまり呼ばれないと言いつつも、わたしは名前を呼ばれるのが好き。ちゃんと顔を突き合わせている気がするから。相手とちゃんと目が合う気がするから。

わたしも、だから、誰かと相対するときは、なるべく名前を呼ぶし、呼びたいと思っている。ひとによっては近くにいても、あえて名前を呼ぶことがある。

あなたの力が必要です。
あなたに物申したいです。
あなたに相談があります。
あなたはどう思いますか。

そんな渾身の思いを、名前を呼ぶ声にかけることもある。物理的な距離感も、心理的な距離感も、超えていく。そんなチカラが、名前を呼ぶという行為にはあると思っている。

名前は、「あなた(わたし)はここにいますよ」という、わたしとあなたの確認作業のための暗号のようだ。

というのも、わたしはときどき、いま見ている世界はわたしだけしか見えていないかもしれないと思うことがある。

どういうことかというと、たとえば目の前の花がわたしには黄色に見えているけれど、わたし以外のひとには、真っ赤に見えているかもしれない、という感覚。

むしろ「黄色」の定義も、もしかしたらわたしとあなた、あなたとあのひと、わたしとあのひとで、ぜんぜん違うかもしれないという想いがある。たとえ違ったとしても、ここ20数年生きてきて、コミニュケーションに齟齬をきたすほどの違いはないらしいから、ひとまず秩序は保たれているけれど。

この漠然とした「共有できない不安感」は、名前を呼び、呼ばれることで少し薄らぐ。わたしが「実咲」だと認識している自分のことを、相手も同じような音声で把握していると確認できるから。けれど、主に表記で間違われてしまうとき、視線が合わない感じがしてしまう。あなたが見ているわたしは、わたしじゃない、その後ろの何かだったり、別のものではないのかな、と一瞬、思ってしまう。

だからわたしも、誰かの名前を呼ぶ時は、間違えてはいけないと思う。もちろん、互いにうっかりミスしてしまうことはあるので、それはしょうがない。そのミスは、何十倍にもして返さなくちゃ、と思うけれど。

「名前を呼ぶ」という行為は、一瞬で相手を引き寄せも遠ざけもする魔法だ。こんなに簡単で、でも意思を把握しあえる方法が、他にあるでしょうか。

あたしの名前をちゃんと呼んで
身体を触って
必要なのは是だけ 認めて
- 椎名林檎「罪と罰」


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