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必死でもそうでなくても地球はいつも回っている、ようだ

ぼーっと海を見ていれば、雲がちぎれたり離れたりして動いているのがよく分かる。波が水平線の向こう側で、小さく生まれては消えて砂浜へまとまって押し寄せてくるのもよく見える。

キューバから望むカリブ海は、障害物がないから大きな音を立てて砂浜の向こうに広がっていた。

このまままっすぐ泳いでいけばメキシコやアメリカに着くのかな?と思いながらまどろんでいた数日。


一週間くらい、電波の届かない地球の裏側へ行ってわかったのは、わたしが息切れしながら必死になって日々を過ごさなくても、そんなことお構い無しに、地球は回っておるぞ、いうこと。

なあんだ、と思う。

必死になって報われなくたって報われて成功したって明日は来る、たとえわたしが死んでも、世界は事無気に回っていく。

それは、虚無感や絶望ではなく、安堵に近い感覚。

がんばらなくていいと、人に言われても信用できなかった、あの「程よく力を抜く感じ」を、この国の海と空に教えてもらったような、かんじ。

安心した。肩の力がふっと、抜けた。抜けたら周りの景色にピントがあってきた。
いままで凝り固まっていた筋肉がふわっとゆるんで、一点集中の猪突猛進型だった視点がひらけてよく見えるようになった。

キューバのトリップ感、帰国後にじわじわキテる。

他の国はだんだん記憶が濾されて、キレイなことしか残らないことが多いけど、キューバはだんだん濃くなってくる。

いつ帰国したの?と問われて、ちょうど2、3日前に、と答えたところで日付を見れば、実は帰国してからもう一週間経っていたことに気づいたときは、ハッとした。

TOKYOは、めまぐるしい。そのめまぐるしさが世界のスタンダード、そして自分のペースのスタンダードだと、錯覚してしまう。

ちょっとうまくやりくりできると、どんどん加速して、気づいたときは全力疾走のランナーズハイ、でも足は血まみれ、なんてこともある。

TOKYOのリズム、それは悪ではないけれど、一生このペースだと、わたしは、家族を持つという願望すら未達のままTOKYOのために命を使い切ってしまいそうだ。

でも、だからと言って他の地へ、とは今は思わない。

どこがぴたりと収まりがいいか、それは国内なのか、海の外なのか、いっぱい回って見て決めたいと思うから。もしかすれば東京都内の片田舎に落ち着くかもしれないし。

キューバがどんなところだったかって、未だにあんまりうまく説明できないのだけれど、わたしにとってはからだのなかがリセットされたような、清々しい脱力感のある場所として、また行きたいリストに追加されました。

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