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“自治”をめぐる大冒険

ここ数ヶ月、「今までの人生でまったく惹かれなかったタイプなのに突然目の前に現れたら個性派ハンサムに見えるヒト」みたいに、目をそらせないキーワードがある。

それが「自治」。

自治会、自治体……その熟語から連想するイメージは、人それぞれだろうけれど、きっとそんなにパッとしない、きらびやかでも鮮やかでも、シュッとしているわけでもないのではないかしら。

少なくとも、わたしにとってはほぼ無縁な言葉で、「自治ってなんだ」なんて、一切考えたこともなかった。

「自治ってなんだ」と考えはじめたと同時に、今度は「短期間しか付き合っていなかったけど数年ぶりに再会したら大人びて気配りとユーモアセンスまで育っていた元彼」ばりにふたたび気になりはじめたのが、イスラエル。

2012年6月から2013年2月までの8ヶ月間、いわゆるバックパッカー的に、好きな国に好きなだけ滞在するというスタイルでふらふらしていたのだけれど、その旅の締めくくりで立ち寄ったのが、イスラエルだった。

イスラエルへは、ドイツのベルリンで知り合ったアナという女の子と、現地集合・現地解散で一週間、一緒に旅をした。

彼女と一緒ということは、初めてイスラエルを訪れたわたしにとっては、とってもラッキーで代え難い体験だった。

それは安全面から考えても心強いし、歴史的背景から見ても学びばかり、そしてアナの繊細で優しい性格に助けられたからでもあった。

エルサレムのホロコースト歴史博物館で、アナと無言で目を見合わせて泣いたこと。

パレスチナ自治区のお土産やさんで、ターバンを巻いたおじさんが色違いのピアス──アナは青、わたしは緑の、アラビア語が刻まれたものを「記念に」と言って、プレゼントしてくれたこと。

カウチサーフィンのホストのヨタムが、わたしたちにシュクシャクというたまごとトマトの料理を作ってくれたこと。

当時のわたしと変わらない年齢の女の子が大きなライフルを背負って、アイスを食べながら街中を歩いていたこと。

そして約8ヶ月の旅で見聞きした、いろいろな国で出会った人、言葉、生活、歴史、宗教───それらすべての伏線を回収するような、イスラエルの風景や暮らす人々のストーリー。

ぜんぶ、昨日のことのように鮮明に思い出せる。

(アナ@テルアビブのビーチ)

思い出したら気になっちゃうので、いま、イスラエルにある集落「キブツ」で暮らしている人々のインタビュー集を読んでいる。

イスラエル人が、イスラエル人にインタビューをしており、それを和訳した本だ。

寝る前に、一日一人分のエピソードを読む、ということを続けて一週間ほど経った。

まだ読破できたわけではないけれど、キブツは、当初想像していたよりもずっと、文明と共存し、個人の取捨選択を尊重する、成熟したコミュニティだった。

もっとヒッピー的な、排他的な、アンチ体制を掲げる集落なのかと、勝手に思っていたから。

キブツでは基本的に炊事、洗濯、産業はすべて決まった場所で、共同作業でおこなわれる。共同のキッチンや手洗い場がある。

個人でわざわざ生活に必要なものを所有する必要はなくて、基本はシェア。

ただ、本来キブツでシェアして使っているものを、個人が持つか持たないかは、個人の判断に委ねられている。

だからテレビを持っている人もいれば、現代ではスマホを持っている人もいるという(これは本に記載された内容ではなくネットで検索した情報ですが)。

キブツへの出入りも、個人で選べる。出て行く人もいれば、残る人もいる。排除はしない。引き止めもしない。

キブツの運営費用は、大規模農業で稼いだ外貨で賄われる。

キブツで暮らすほとんどの人は、農業従事者だという。

家事や子育ては、もちろん共同体でおこなわれるから、そこに明確な男女の役割分担もない。

そしてきわめつけは、キブツ独自のカルチャーがキブツごとに育っている、ということだ。

わたしは勝手に、このキブツというコミュニティの成熟度合いが、少しアイヌのそれに似ているのかも、と思っている。

まだ確信はないけれど、外へ開けることで生き残る、という面は、なんだか近しい気も、する。

もう一つ、イスラエルではないけれどフランスに、人口1名という“自治体”があるらしいことも、調べて分かった。

そもそもフランスには市町村という考え方がなく、コミューンと呼ばれる共同体で自治組織が成り立っている。

フランスにあるいくつかのコミューンのうち、「ロッシュフルシャ」という人口1名の自治体が、あるという。

世界には、いろんな“自治”のかたちがある。

“自治”を、コミュニティという呼び方をする方もおられるかもしれない。

また、ヒッピー的な文脈でそれをとらえる人もいてもおかしくない(とても際どいグラデーションがある気がする)。

でも、わたしはべつにヒッピー的な生き様にはあんまり惹かれない。

“自治”を、わたしの駆け出しの知識で翻訳するならば「自分で生きていく力」という表現が一番、感覚として近い。

そして”自治”と”芸術”も、強い結びつきがあるような気がしてならない。

これは文化人類学とアートが関連性の強いトピックとして語られるようになったこととも、関係が、あるのかな。

「生活が、表現である」という、確信が、なぜかどんどん強くなってくるのだよな。

さてあまりにも壮大なテーマすぎて、まったく、一度で書ききれない。

のだけれど、もし時間とお金があるなら、世界中の”自治”を巡る旅を、したいな。

というのが、最近の関心ごとです。

なぜ“自治”に興味がわいたの?というハナシは、また今度。

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