“とくべつ”という高カロリーによる胸焼け
毎度毎度、「これは本当に必要だろうか?」「わたしはこれのどこがいいと思うのか?」と自問自答して選択する行為は、それなりのカロリーを消費する。
もちろん、そうした視点で手に入れたものは、いつなんどき見ても愛おしいし、結果的に長い時間を共にすることが多い。
でも「長持ちさせたい」から選ぶのかというと、そうではないこともある。
結果的に長いこと愛用していたり長持ちしていたりするコト・モノのほうが、むしろ多いのではないかと思う。
選択にかけた時間と、それに対する愛情の深さは、必ずしも比例するわけではない。
そのうえ、愛で続けたいものばかり取り揃えておいたとて、旬というのはあるもので。
人間は“飽きる”から。
“飽き”がきたら旬は過ぎ、“空き”が出て、とくべつだったものが2軍に下がり、次の“とくべつ”で埋まる。
でも「飽きもしないで続けていること」「飽きがこないもの」は、たとえなんとなく選んだとしても2軍には下がらない。
選んだときのように、ただなんとなく、ずっとそばにあるだけ。
だから「これぞ」という高カロリーなものは、ときどきでいい。
「こんなもんでいいかな」程度の気負いでも、じゅうぶんだ。
「適当に選ぶ」ことだって、なかなかむずかしいんだぞ。
「気づいたらここまで来ていた」というくらい、流され上手のしらふでも、後悔さえしなければいいじゃない。
熱は、熱し続けなければ冷めてしまうから。
それに、“とくべつ”を迎え入れるための空きスペースには、個人差はあれど、きっと上限がある。
なんでもかんでも、高カロリー(熱)な選択ばかりしていたら、それこそ胸焼けしてしまう。
旬は、一瞬だから良い。一瞬だから、浮かされる。
毎度、ドラマティックな動機を求められても、ただなんとなくという、茫漠とした選択以上も以下もないのが真実。
それにもう、“とくべつ”を求めることにすら、人は飽き始めているのかもしれない。
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