わたしたちはどこから来たのか、そして、どこへいくのか2017

最近、ずっと考えていたことがある。

ここ数年は、LGBTの活動がとても注目されていたように思う。2015年11月には渋谷区が「パートナーシップ証明書」の発行を始め、同性同士の恋愛を認めたり、同じ頃、アメリカでも全州で同性婚が認められたり、ポジティブな動きが活発化した。

ゲイやレズと呼ばれた人たちが、咎められたり馬鹿にされたりすることなく、自由に恋愛できるようになる大きな一歩だ。個人的には、とても喜ばしいことに感じる。誰にでも誰かを好きになる権利はあるから。

恋愛の話で言えば、ポリアモリーという言葉もちらほら見かけた。ポリアモリーという言葉を初めて聞いたのは、愛聴しているポッドキャストだったのだけれど、一夫一妻制に疑問を感じている友達が、実はわたしの周りには何人かいて、離婚や事実婚が珍しくなくなって来た昨今、ポリアモリー自体は、そこまでブッ飛んだ思想ではないのかもしれない、と思うようになった。

恋愛だけではない。

着るものも食べるものも、生活スタイルも何もかも。

人が自由に動けるようになればなるほど、生活文化は交錯し、交わり、混ざり、マーブル模様のように融解して時間をかけてアメーバみたいにまた新しい伝統や文化を構築していき、またそれらが混ざり合い、更新されていく。

基本的に、やっぱりわたしは、これを喜ばしいことに思う。

昔から「外国人」とか「外人」という言葉への違和感もあったし、内と外の文化が互いに知り合い、混ざり合うことは、摩擦も生むけれど新しい価値観や世界を作るきっかけになる。

今までになかった立場や考え方、慣習を、葛藤や戸惑いとともに受け入れ、徐々に咀嚼して共存することは、ある意味、最強の生き残りテクニックでもあるように思う。

けれども。

一方で、混ざり合うことでなくなっていく“オリジナル”もある。

この“オリジナル”は、例えば伝統という言葉に置き換えられるかも知れない。

様々な文化の流入と混在により、意図的にであれ無意識であれ継承されて来た日本の伝統文化、生活文化はじわりじわりと薄れ、やがていつか消え去るかもしれない。

多様性の共存により、失われていくオリジナリティ。

その消失に、不安がないと言ったら嘘になる。

わたしが生きている間に起きるかどうかは分からないけれど、今はただ、当たり前だったものや長年培われて来たものが変わり、消えつつある予感がするだけ(それでも残るものは確実にあるだろうという期待と希望はあるけれど、それがなぜ残るのかな?どういうものが残るのかな、というのはまた別の機会に考えたい)。

わかりやすい例で言えば、「日本人」というと、今では大体同じ見た目だけれど、50年後には「日本人」の平均的見た目は確実に変わっているだろう。

様々な国の血が混じり合い、もしかしたら、いつか地球上に住む人間の見た目は大体同じになる日が来るかもしれない(その日まで地球が持つのかは分からないけれど)。

そうすると「日本人ってどういう人なんだっけ?」という疑問が生まれるだろう。実際、ダブル(ハーフの別称)の人は、「自分は何者なのだろう」と悩むことが多かれ少なかれあるという。日本人同士の親を持っていても、同じような漠然とした不安に駆られることは、珍しくない。

いろいろな国や文化が混ざり合うことが普通になれば、悩むこともなくなるのだろうか。

国に対するアイデンティティがなくなると、一体人間はどうなるのだろう。別の心のよりどころを探すのだろうか。それが、宗教だったりするのだろうか。

言葉や国の境界を超えていく“共通言語”が、世界を救うこともあれば、ある意味滅ぼすこともあるのだということは、新しいことを許容する柔軟性も忘れないまま、頭の片隅に置いておきたいなと思う、2017年のはじまり。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は芸術に関する本を読んだり観劇に行くチケットを買ったり、海外に行く軍資金にさせていただきます。

Dankon
6

立花実咲|Misaki Tachibana

何につけても「そもそも」を考えがちな1991年生まれの編集者です。

20170101〜どうでもいいつぶやきとかネタめも

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。