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抱きしめられずに別れてしまった、あの日から思うこと

このまえ、友人がキリスト教徒の巡礼路を経てモロッコを経由して帰国したから、会って話をした。勤めている会社では、上司が東欧あたりを周遊中。CAの友人は世界中を飛び回り、好きなひとはほぼ北欧のひと。Languges exchangeをしながら意識的に外の世界をつなぎとめつつ、最近気になる宇宙の話にわくわくしたり、テロが止まない世界の知らせにただただ何もできずにもやもやが積もったりする日々。

一度足を踏み出してからは、もうこれからの人生に欠かせない存在になった、日本以外の異国と文化。国外に大切な人たちがいたり、国外から来た大切な人たちがいたりすれば、好きな映画や漫画とかアクティビティの情報を得たくなるように、おのずとアンテナはそっちの方にもピーン、と立つ。

日本では(実質は置いておいて)Japan as No.1な雰囲気がふつふつと煮立ってきているというのに、わたしはあまのじゃくなので、「すばらしい!」と言われるものに対して、「本当にそうかな?」とか「No」とか言いたくなってしまう。もちろん、日本の好きなところはたくさんあるけれども、そうでないもの、日本的ではないものに触れてなお冷静に判断できたものだけ、好きなところとして残すようにしている。

いま現在起きていること、歴史、未来などにも興味がある。同時に、個人的な思い出も、よく蘇るようになった。昨夏のキューバも、卒論試験の当日朝に帰国した(!)友人とのフィンランド旅行も、4年前の一人旅も、初めてパスポートを作って10代最後の年に行ったインドも。でも、こうしてみると、日本を出た回数で言えば、わたしは4回しか出国していないのだ。いまだ紺色表紙のパスポートには出国スタンプが4つしかなかった。

どこへ行っても、国を発つ瞬間というのは、その土地で過ごした日々から引き剥がされるような「永遠のさよなら」のような気持ちがしてしまう。それは、飛行機で離陸するときに加速するあの数秒間のせいで、急激な重力とスピードがわたしを無理やり国から引き離すような、肉体的にもひきちぎられるような感覚がするからだ。

特に一人旅の頃の、日本へいよいよ帰るぞという飛行機が加速して機体が地面を離れるまでの刹那は、いまでもよく覚えてる。各地で誰かを訪ね頼る旅だったから、もっとも「引き裂かれる」感覚が強い離陸だった。

約8ヶ月の旅の最終日、わざわざわたしが滞在していたトルコまで国を超えて、帰国を見送りに来てくれた人がいる。その人は、家族ぐるみでわたしのことを約3週間めんどうをみてくれ、そのあと他の国へフラフラと放浪するわたしの書く拙い英語のブログをとても楽しみにしてくれていた。
彼がトルコのイスタンブールに着いて、ガラタ塔の下で数ヶ月ぶりに再会した彼は髪が少し伸びていた。それから帰国する3日後まで、いっしょにイスタンブールで過ごした。帰国当日は早起きして黙っていっしょに空港までの地下鉄に乗り、珍しくわたしの荷物を持ってくれ(あんまりそういうことに気が効く人ではなかった)、やっぱり黙ってロビーに並んで座った。いよいよ、パスポートコントロールへ、という時も、向き合ってじっと見つめただけで、触れたかったけど、触れられなかった。ガラタ塔のの下で再会したときは、あんなに素直にハグができたのに、手を伸ばしたらぎゅって抱きしめられたのに、また会えるよ、とだけ言って、わたしはそのまま彼の目を直視できずに、出国を待つ人の列の中に紛れていった。そして、動き出すのを待つ飛行機の中で、別れ際にもらった手紙を開けた。やわらかい鉛筆の筆記体で「書くことを続けて欲しい。きっといつか君が書いたものが有名になって僕の国に届くまで」と書かれてあり、裏には大きな花の絵が描いてあって、もう、なんでわたしは、あのとき手を伸ばして抱きしめず、わざとらしい笑顔なんかつくって、強がって、別れてしまったのだろう、なんて、途方もないバカなんだろう、と頭を抱えて手紙を握りしめて号泣した。嗚咽が止まらなくって客数をチェックしているCAが、思わず肩を抱くほどにわたしは混乱して、悲しくて、なぜ思い切ってあのとき、あんなすぐ近くにいた、そのひとの手や腕に触れられなかったのか、悔しいような切ないような、もはや全部ごちゃごちゃになった気持ちで泣いた。

隣の、たぶんロシア人のおじさまに、「大丈夫?」と遠慮がちに心配されて、周りの人たちの心配したような不審がるような眼差しに、ふと我に返り、目頭を押さえて心を落ち着けようと深呼吸した。
と、その時とまっていた飛行機が、ぐぐぐんと加速しだした。

ただの日本の小娘を受け入れてくれたすべての国と人にありがとう、さようなら、さようなら、あなたにもまた会いたいよ、できることならこの飛行機を降りて、と思いながらまた涙がぽろぽろ出てきた。

ゆっくり機体が浮いたとき、引き裂かれた心がぶわっと外に放り投げられたような感覚がした。「ああ、わたしはこれから帰るんだ、自分の家に」と思った。どこへでも行けたわたしも、家へ帰る時がきた。

わたしはよく、過去の思い出やできごとを思い出すし、よく覚えている方だと思う。そしてことあるごとに、それらをこねくり回して、いまのわたしの状況に活かせそうなヒントとか反面教師になりそうなことを一通り探して、また過去の引き出しの中にしまう。

思い出した過去は、思い出せる程度になってきたら大抵美化されているものなので、このエピソードがもはやそっくりそのままわたしのものなのか、それとも大方事実でも多少アレンジしたものなのかは誰にも判断できない。

でも、思い出すということは、何かを探しているということだ、たぶん。あの日、別れ際に抱きしめられなかった日から、少しは素直になったかなあ。いま考えたら、なんておごり高ぶっていたのだろう、かっこつけるのにもほどがあると呆れ倒すけれど、当時のわたしはどうしても自分から手を伸ばせなかった。

抱きしめられなかったあの日から、わたしは飛行機の離陸する瞬間が、とても切なくて悲しくて、何かを振り切るような気持ちになる。直視できなかった彼の姿は、今となってはもうおぼろげだけれど、あんなふうに目をそらして強がったところで、一人引き裂かれるばかり、結局カッコもつかないよ。


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