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何を以って“プレイヤー”とするか

約三年前「プレイヤーになりたい」と思った。

いろいろな地域をかけめぐるなかで、腹落ちした言葉を持つ人々がつくるもの、こと、場所を見て「編集者やライターという仕事は、ゼロからイチを作り出している人がいるから生まれる仕事なのだな」と思ったら、わたしもゼロイチ側にまわってみたいと思うようになった。

「飽きたんだね」と、ある人に言われたこともある。

そうか、飽きたのか。あながち、間違いではない。

同じことをコツコツ、続けることが、わたしはあんまり、向いていない。

書くことだけは本当に、20年以上続けられているから、一抹の希望ではあるけれど、書いているものはコロコロ変わる。

同じものを書き続けることはできない。できないことはないけれど、長続きしない。

実際に、地域に入って、わたしは晴れてプレイヤーに……

なったのか?

分からない。

けれど今おもうのは、実ははじめから、プレイヤーだったのではないかな、ということ。

一年と半年経って、ゼロからイチにも、いろいろな方法があると気づいた。

そしてわたしが本質的に「いいな」と思ったのは、ゼロからイチにするだけでなく、イチをニに、ニをサンに、サンを、ヒャクにもセンにも、積み重ねていく持久力のほうだった、ということだ。

地道に積み重ねていくことが得意なプレイヤーもいれば、瞬発力が劇的に強いゼロイチに特化したプレイヤーもいる。

どちらの存在も必要で、両方いるから、風通しが良くなるし、文化ができる。

わたしは、劣等感こそ以前に比べて格段に(それはもう見違えるほどに)薄らいだけれど、基本的に「自分は無力」という感覚がある。

それは、諦めにも近いし、「だったら無力なりに最低限できることをやろう」という気力を持続しておくための、自分へのささやかな言い訳でもある。

無力なりにできることといえば、時間を守るとか、返事はすぐにするとか、そういう取るに足らないことなのだけれど。

瞬発力と持久力と、プレイヤーとしては、どちらの筋力が強いのか。

どちらが無理なく、動かせるのか。

それが分かると、きっと体が軽くなる。もっと自由に、飛び回れる。

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