疑うことを恐れない、忘れない
疑うことを強要しない、安心安全なコンテンツは、どんなに上すべりでも多くの人を惹きつける。
でもそれらのほとんどは、すでに知っていることの答え合わせ。
日々の生活において、興味のない、“範囲外”のものが突然わたしたちの世界に入り込んでくることは、ほとんどない。
毎度、そんなものに対面していたら、たしかにすっかり疲弊してしまうに違いない。
知らないものは怖いし、できれば知りたくもない。
知って仕舞えば、都合の悪い真実と向き合わざるを得なくなったり、予期せぬ傷を受けたりするかもしれないから。
自分を守るためにも「出会いたくないもの」「知らずにいたいこと」は、ごまんとある。
それでもわたしは、疑うことを、怖がらずに生きていきたい。
疑うことを、忘れずに、生きていきたい。
安心安全に無邪気に身をゆだねず、手前で「そもそもこれは本当なのか?」と立ち止まり観察したい。そうしないと、どこか落ち着かない。
「きっとこれは、役割分担だ」と思う。
100中100人が疑ってばかりだと、進むものも進まないだろうし、逆も然り。
それぞれの視座で世界を生きるのは、第三者に侵されるべきではない。
けれど。
疑う隙すら与えられず、安心安全が突如、無抵抗のまま破壊されることがあるとしたら?
その対抗手段を、事前に知ることができるとしたら?
疑心暗鬼な心は、麻薬的な呪いになって、おのず鬼にも化けてしまう。
けれどその鬼は、閻魔様みたいな無慈悲な裁判官とは限らない。
もし『泣いた赤鬼』の鬼ならば、安心安全の消失を目前に、警笛を鳴らせることもできよう
安らかに身も心も包まれるゆりかごを前に「それは本当に、安全かい?」と観察するわたしは、時に「余計なことを言う鬼」かもしれない。
けれどどんな鬼になろうとも、疑う火は絶やさず守りたい。
「知りたくないこと」「知ろうともしないこと」は、あちこちにゴロゴロあるとしても「知らなくてもいいこと」がゴロゴロあるとは、思わないから。
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